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SPAC演劇 夜叉が池 宮城聰 演出

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宮城聰さんの演出は、様々な要素があり、全部をとらえきるなんて、
とってもできませんが、
音楽、ユーモア、シリアスな演出、
光、照明、闇、
観ているだけで楽しいし、深さを感じざるを得ません。
そして、十分な稽古をされた洗練なSPACの演劇はいつも感動です。


夜叉が池は、
村の人々、魔界の者達、
なみなみと溢れる夜叉が池からの清水の麓の、両者を橋渡しする夫婦
(正確には夫婦ではないかも)、
そこに何が起きたか、村に深刻な日照りが続くことで、
3者が動き始めます。
それを見届けるのは、観客を代表する京都の大学講師、
彼の目で物語が始まり終わります。

3者がそれぞれメインになる舞台での演出が、三者三様です。

夫婦と講師の舞台は、良き人の営みと、
悪意がない人の嫌らしさと純な心を伝えます。

魔界の舞台は宮城さんがユーモアを交えた楽しい演出が光ります。
その中に、魔界の姫がいて、彼女は純粋な心の持ち主で、
恋のために全てを捧げる心と、
約束(義理人情)を曲げられない姿勢を見せます。

村の人々は7人です。
政治家、金持ち、教師、神主、農民、ヤクザ、従順な人
凝縮された人選です。
それらのごく普通の社会に属する人が、
生死の危機を感じた時にとる行動は、
魔界の姫の純粋な行動とは真逆です。

けれど、人はこうなるのが常です。
そして、魔界の姫も人が創る象徴で、それも人が自ずから持ち合わせた心です。

だからこの演劇は、
人の嫌らしさの極みをみせながら、人の善をも匂わせます。
人の嫌らしさは、迫り来る音と圧力で圧巻をみせます。

村の人々と魔界の橋渡しの夫婦は、
結局やり玉に挙げられるのですが、
二人の暮らしは理想像です。
だからやられたんだろうと、悲しくなります。

人は嫌らしさと純粋の両面があります。
その中で、嫌らしさは徹底されます。
多分夫婦は、村が日照りで困る中でも比較的その貧困の影響はなかったのでしょう。
決して裕福な暮らしではないけれど、困らないことに揚げ足を取るのが人の性です。
しかも仲が良いことはそれを冗長します。

村の7人には、金持ちがいます。
だけど、金持ちでない夫婦はやられるのです、金持ちはやられずに。
そこには嫉妬も大きい一因です。
それと、誰かを生贄にする共通認識の中で、
生贄にしやすい者を求める安直が、それを正当とする見せ掛けの正義で、
溜飲を下げるかのように村の共通意識になります。

それを推し進める正当さを言い聞かる迫り方です。
(これが圧巻です)

その狂った村は葬られます。
それを講師は見届けます。私達に見届けて欲しいように。

純粋だった姫は我が意を得ます。
そしてラスト、
天空から廃墟になった村を眺め、
寄り添いながら死んだ夫婦に語りかけます。
けれど夫婦は動き出すことはありません。

それを見て講師は客席に消えます。私達の下に戻ります。
そしてカーテンコールです。

けれど、夫婦はそのまま動きません。

宮城さんは基本的に性善説だと私は思っています。
このラストは非情さを演出しています。
一件非情な演出ですが、私は心の中で「動くな」と言いながら、
素晴らしい俳優(夫婦を除く)達に拍手を贈りました。

(宮城さんの意図はわかりませんが)
取り戻せない事は常。
大きいことも小さいことも。
それを持ち帰ることが私にとってのこの演劇でした。

【いもたつLife】

日時: 2012年09月30日 09:12