月別記事

ブログ 今日のいもたつ

2013年06月

今年も見つけました

130610blog.JPG

畑の草取りをしていると、
ヒバリの動きがおかしいので、
もしかしたらと、よ~く探してみると、
巣がありました。
卵が3つ。
本当に上手く隠してあります。

時季からすると、そろそろ羽化する頃です。

【芋日記】

日時:2013年06月10日 07:32

秋のソナタ 1978米 イングマール・ベルイマン

130609blogy.jpg

ほぼ4名の人物がひと部屋内で繰り広げられる、
愛憎劇、復讐劇です。

母は名声を得た芸術家です。
しかし幼い娘二人と夫を捨てた過去があります。
主人公は長女、母からの愛情が欲しくても受けられなかつた彼女が、
母を許そうと、7年ぶりに母と合う設定をしましたが、
赦すことができず、母との会話で自己を抑制できず修羅場になります。

もうひとりの娘、次女は脳性麻痺で、長女が育てています。
母にとって次女は、負の遺産です。
長女にとっては、母が犯した罪の象徴が脳性麻痺の妹で、
施設に入れておきたい母の欲望を逆なでするために、
引き取り育てています。
でも長女のその感情は封印されています。

長女の夫が4人目の人物です。
この物語では、母と娘が憎しみ合う愛憎劇で、
娘が母を相手にした復習劇です。
その二人の心情の機微を補足するための役割です。

娘(長女)は芸術家として、女として偉大な母に憧れていました。
いつも、いつも。
しかし、その裏返しの仕打ちしか受けられませんでした。
母は、愛することを知らない、できない女であり妻であり、母でした。
その悲劇が、露になる一日の物語です。


母と娘の痛い罵り合いの応酬です。
次女が時折発作で呻きます。
母を制するように。

人が持つ本性というか、
自己を生かしておくために必須の貯めこんでいた感情が、
今まで生きてきたことの清算のように、暴発します。
お互いを赦すという名目で。

こんなにも人は愛情を必要とするのかというような描写です。
愛情が必要だから、得られない代償が憎しみに変わり、
それが生きる支えになることを、
イングマール・ベルイマン監督は、
赤裸々に、そして、憎むべき相手に対して、
最も痛烈な言葉で相手を撃つという表現です。
すごい映画でした。

母はイングリッド・バーグマン、最後の映画です。
娘はリヴ・ウルマン、
二人とも熱演でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年06月09日 08:21

先が見えてきました

130608blog.JPG

ほしいも農家用語に「先が見えた」があります。
有機農園の定植も大分進み、先が見えてきました。
5月下旬から6月中旬が干し芋産地の定植の適期です。

今年は予定通りに行きそうです。

【芋日記】

日時:2013年06月08日 07:26

麦間栽培プラスEM農法

130607blog.JPG

進化させた麦間栽培を試しています。

いつもの通りサツマイモの畝(うね)間に麦を蒔き、
伸びたら倒して抑草にしますが、
種蒔きの時点で冬に干し場で使用していた稲藁と、
この畑で育てていた麦藁を畝間に敷き詰めました。

それに加えてEMぼかし肥料も畝間の鋤き込み、
抑草効果を試しています。

EMは嫌気を好むので、
藁を敷くことでそれに少しでも近い条件にしています。

今のところ、麦敷きもEM菌もある程度の効果が確認できています。

【芋日記】

日時:2013年06月07日 07:29

有機栽培プラスEM農法

130606blog.JPG


EMとは有用微生物群です。
EMぼかし肥料を畑に入れることにより、
サツマイモが有機肥料を吸収しやすくなります。
それ以外に、抑草も期待できます。

EMは嫌気で活発になるので、
EMぼかし肥料を入れて、ビニールで覆っています。

ビニールを剥がしても、抑草ができるか、
それくらいの効果があるのかを試しています。



追伸
6/5は「芒種」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「芒種」の直接ページはこちら
芒種

【芋日記】

日時:2013年06月06日 06:32

麦間栽培の草取り

130605blog.JPG

抑草と線虫予防効果の麦間栽培ですが、
抑草に関しては、麦が伸びるまでは除草作業が必要です。

サツマイモ畝(うね)の間に麦がありますが、
その麦を畝は除草が必要です。
麦が伸びれば、それを倒して草を抑えます。

【芋日記】

日時:2013年06月05日 07:50

伸びる時季

130604blog.JPG

畑回りに、緑肥植物や麦を蒔いている畑があります。
畑内の生態系を多様化させるのが目的で、
病害虫対策の一環です。

この畑では昨秋にえん麦を蒔いておきました。
急に伸びて穂を付けました。
ほしいも用のサツマイモ苗も、
育苗ハウス内で育てているキャベツも、
畑の雑草も、えん麦同様に急に伸びてきています。

伸びる時季が来ました。

【芋日記】

日時:2013年06月04日 07:27

黄金の馬車 1953仏/伊 ジャン・ルノワール

130603blogy.jpg

この映画は、映画の中で語りたい現実への導入で、
観客を映画の中のセットに誘います。
幕開きその中に現実があるといいます。

主人公のカミーラは、イタリアから南米の植民地に出稼ぎに来た劇団員の一員です。
新大陸で希望を、金を求めてやってきました。
カミーラは、金と自由を得たい私達です。
カミーラは3人の男に求愛されます。
勇敢で優しい騎士フェリペ、彼女は最初は彼と相思相愛だと勘違いしています。
闘牛士ラモンはこの地の英雄です。ストレートに彼女を愛します。純粋な男です。
総督フェルディナンは、富も権力も名声も持っている貴族です。富・権力・名声の象徴の『黄金の馬車』をカミーラに与えます。

映画は、男3人とカミーラとのドタバタで進みます。
時折挟む劇中劇では風刺の演目が上演されますが、
それはドタバタを含めた映画内の現実を観客に客観視させます。

貴族の日和見的な嫌らしさ、彼らは何も決められません。
何も行いません。今が続くという幻想を追うだけです。

無いものねだりのカミーラも愚かです。
フェリペには、ラモンの純粋さと総督の力を求めます。
ラモンには、フェリペの愛と総督の力を、
総督にはラモンの純粋さとフェリペの愛を。

3人の男はカミーラを女神とします。これも愚かです。
女神ではないカミーラを、女神に愛されたいから彼女を無理やり女神とします。その上で欲します。
彼女にとっては迷惑な話ですが、言い寄られると彼女はそれぞれの男が持つ違う魅力を全て欲しがります。

だいたい冒頭の、この一座を呼んだ奴らからして強欲です。
それは植民地支配は続かないという予測を、
造り手が織り込んでいるのかもしれません。
それはさておき、貴族達も含めた己しか見ないことへの破綻を、
ドタバタを通して描きます。

ラスト、映画の現実が終わると、
舞台の中で演じられていたごとく幕が降ります。
幕の前、舞台の外にカミーラが登場します。
カミーラに残った現実は舞台だけでした。
あれだけ欲した金も、貴族の称号も、熱い恋も、強い男も、
得られそうになりますが、全てを望むことで全てを得ることができない。
それは観客もわかっている道理です。

そして、カミーラが一回りして残ったものは、“舞台”でした。
これさえあれば生きていける。最高のものだけは残りました。
もっと突っ込めばカミーラが仕方なしではあったが、
行った善行に神は応えて、カミーラに舞台だけを残したのです。

どこまでが舞台でどこからが現実かをカミーラは悩みますが、
彼女は舞台に立つことにより、舞台ではない時の生があることを悟ります。
それが彼女の人生だということも。

人は何が望みかを自分に問うことがあります
それは迷った時です。迷う時というのは邪な欲が湧いた時です。
私にとっては仕事という舞台があります。
同様に、誰しも生きてきた舞台があるはずです。
それに熱意を傾けるのが、真の望みなのに、その価値を見失うのはカミーラと同じです。
人のことならわかります。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年06月03日 07:43

飢餓海峡 1965日 内田吐夢

130602blogy.jpg

二度目の鑑賞です。
私なりの三国連太郎さん追悼です。

三国さんの代表作であり、ヒロイン左幸子さんの代表作でもあると、
捉えていましたが、今回もそれを強く感じました。
そして伴淳三郎さんもいぶし銀です。

物語は、戦前の飢餓、戦後それを引き継いだ飢餓と混乱、
それと、人が人を信じる難しさを描いています。
それらは前回の鑑賞でも感じていて、今回も同意です。

今回は、それに加えて二人の分岐点を考えてしまいました。
二人とも極貧の出生です。
二人ともあのカネでそこから抜け出せました。
二人は一夜未満で共に相手の心の空虚を知りえました。
でも10年の時は二人にとってお互いの存在は全く違ったものになっていました。

この仮説は間違っているかもしれません。
三国連太郎は、海峡を抜ける時も、左幸子と別れる時も、過去の自分を捨てることを科した人物でした。
でもそれが全てとは言い切れません。彼は贖罪をすることで、生きる許しを得ていたからです。

でも左幸子とはすれ違った。そこが悲劇です。
女は男にとっては聖女です。でも男にはその想いは届きませんでした。
男は女の登場が全くの想定外で、パンドラの箱を開ける存在だったからです。
でも箱から最後に出てくる希望を得るまで男は自分を抑えることができませんでした。

二人は一晩未満の出会いから別れて、
二人とも同じ道を歩みました。
それは生きていけることを感謝し、生きることです。

人生は皮肉です。
それが崩れるのです。女の一途な気持ちで。
男への感謝の念を生きがいとしていた純粋な女の行為で。


罪を犯したら、必ず償うことを義務付けられているのでしょうか?
その償いとは、自己を満たすことでは満たされないのでしょうか。
男が犯した罪の重さは最後までわからないままです。
事実は男にしかわかりません。
そして男の最後の行動はそれに見合った行動なのでしょうか。

男が罪を作ることになったきっかけに同情はしませんし、できません。
そして、彼は重大な罪を重ねました。
けれど誰もが男と同じ境遇なら同じような行動になることに同意します。

罪という概念は、神の意志であるとともに、
人がつくりだしてきたのでしょう。
でもそれをルール化することが人の知恵であるのだと、
そんなことを考えてしまう二度目の鑑賞でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年06月02日 07:40
<<   < 123