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銀幕倶楽部の落ちこぼれ

マルタ 1973西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の映画にはしばしば最低の人間が登場します。
けれどその人物と自分自身を一緒ではないと切り離してしまうことを決して許しません。

この映画の主人公マルタの夫ヘムルートは、マルタを支配しなければいられない人物で、
しかもドメスティックバイオレンスをもってマルタが恐怖に慄く様に快感を覚える男で、この男の興奮を求める姿は、悪魔の心の起点は理性が封じ込めているけれど自分の中にもあることを示す姿です。この映画はそれを省みさせられます。

またサイコパスを生む社会への問題提起もあります。映画の上でのドイツでは、まだ女性の社会的地位が低い男尊女卑を感じさせますから、当時の社会が生み出していた風潮へ言及していますし、もっと言えば、この問題は現代の方が根が深いと言わざるを得ません。

ヘムルートの巧妙なマルタへの虐待、マルタはそれに耐えることが妻らしいという認識があり、虐待はヘルムートの愛の裏返しだと受け取ろうとする姿(認知的不協和)は、単に夫婦の個々の性格でこの悲劇が起こったとは片付けられない社会が産んだ問題です。
けれども、やはりヘルムートは異常ですし、でも私の中にもあるデビルな人格だと言わしめる力が映画にあります。

強烈な映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月31日 07:18

沙羅の門 1964日 久松静児

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本当に自分に愛情を注いでくれるのは誰か?
そして自分が本当に愛情を注いでいるのは誰か?
世界でたった一人で良いからそういう存在があれば生きていけます。

禅寺の和尚は妻帯厳禁のしきたりがあるようで、
この映画の主人公の煩悩ありありの和尚(承海)には、
籍は入れていない、内縁の妻と一人娘(千賀子)がいます。
若い妻を亡くすともっと若い後妻(八千代)をもらいます。
物語は、千賀子が13歳のときに八千代を貰うところから始まり、
千賀子が21歳の女子大生にまですぐに飛びます。
京都を舞台に、承海に尽くす八千代と、男関係に悩む千賀子、
それを案ずる承海と、血は繋がらない千賀子にも親身になる八千代の、
3人を中心に展開します。

煩悩ありありでスケベな承海ですが、八千代に首っ丈です。
そして“金儲け坊主”と仲間の和尚に揶揄されながらも、千賀子の学費を稼ぐために、
一生懸命に檀家回りします。檀家も熱心な承海に感心しますが、
ある日交通事故で承海が亡くなります。

承海はあくまで、独身を通した立派な和尚として禅宗では祀り上げられます。
でも本当は煩悩ありありの人間くさい親父でした。
千賀子はそんな父親を煩わしいと思っていましたが、
亡くなった今はそんな生き様を立派だと想います。

内縁の八千代も戸籍上は娘でない千賀子も、
本葬には列席できません。そして、寺を出て行かなければなりません。

八千代と千賀子は血は繋がってはいませんが、
本当の母娘以上の硬い繋がりをお互いに確信します。
それをもたらしたのは承海の生き方だったことも解ります。
ここで映画は終わります。

原作ももちろん良いのでしょうけれど、脚本も演出も良いです。
リズムあり無駄が無い展開で話が流れます。

健気な八千代は承海にも、前妻の娘の千賀子にも愛を注ぎます。
それを受けながらも千賀子は、思春期から大人になる女の苦悩があります。
八千代が物分りが良いだけに父への抵抗から、若いから、羽目をはずしてしまいます。
そして禅宗に嫁ぐ(籍は入れられない)女の立場の矛盾に怒りを持ちます。
その家庭環境が時に千賀子を退廃的な生き方にしてしまうという話の流れもスムーズですし、
そんな娘を素知らぬふりながら、しっかりと解って心配する父親像もとても良いです。
それら3人の個性はとても人間くさいですが、
家族を何よりも大事にしている人間賛歌の物語です。

ラストは理不尽な立場に立たされた八千代と千賀子が逞しく生きていこうとするのですが、
その心の支えが一番身近な血の繋がらない家族=お互いだったというのも凄く良いです。
きっとこれから二人は時々喧嘩することもあるでしょうけれど、
仲良く、そして人にも優しくできることが想像できます。

なんてったって、二人は二人を無償で想い合えるからです。
人間の幸せはそんな人が身近にいることだと本当に思える映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月30日 07:22

プロミスト・ランド 2012米 ガズ・ヴァン・サント

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巨大な国の力で支配されていると感じてしまう映画です。

スティーヴはシェールガス開発会社グローバル社の有能社員で、同僚のスーと共に、アメリカの片田舎に行き土地の採掘権を獲得に行きます。(他の地方でも安く買い叩いた実績があるということが有能の理由です)
農業で生計を立てている人々は、決して豊かではありません(そういう設定です)。そこに、採掘権を売れば左団扇で暮らせることをちらつかせるのです。
次々に契約する農家達。契約をもっとスムーズに進めるためにスティーヴは、町長を賄賂で抱きこみ、集会を開き一気に契約を進めようとしましたが、集会には、シェールガスの採掘の水圧破砕の技術は、農地を死なせてしまうことを知る科学者が参加していて、住民はスティーヴに懐疑的になり、結局は3週間後に住民投票を行うことになります。
そんな中、環境保護活動家のダスティンが現れ、ますます住民は採掘に難色を示していきます。窮地に立たされたスティーヴも必死に抵抗します。

投票の前日、実はダスティンが語っていたことが嘘だったことが発覚、スティーヴは勝ちを確信しますが、それらは全てグローバル社の画策だったことも判明します。
スティーヴがとった最後の行為は・・・。

スティーヴは、彼自身田舎の農家出身者です。幼い頃、彼の村はキャタピラー社のお陰でなんとか食いつないでいました。農業では食えなかったということです。
そのキャタピラー社が村から撤退すると、村は立ち行かなくなったことを経験しています。だから、貧しい農家に採掘権と引き換えに金を渡すことは“絶対の正義と確信”していました。


映画の中で印象的だったのは、スティーヴが反対派の農家達を相手に、「どうせ今の農業も政府からの補助金があるから成り立っている。それがなくなればあんた達は路頭に迷う」(正確ではありません)
彼は農家の一人から殴られます。彼らにはタブーだからです。
ここに根深い問題があります。
大いなる支配で生かされる田舎町、都市や都会のための歯車が田舎である、と感じるばかりです。
彼らはそれを望んでいた訳ではありませんが、飼いならされる構造があったところに生まれた人々です。

おとなしく農業をやっていれば、大いなる力は牙を剥きません。それが時代の流れで、代々続いた土地だけれども今度はシェールガスの採掘をさせれば牙は剥かないよ、に変化しただけなのです。

ラストにも印象的なシーンがありました。
投票が行われる会場では、少女が25セントのレモネードを売っていました。スティーヴは一杯買い1ドルを渡し「釣りはいらない」と言います。
すると少女は「カンバンにも25セント書いてあるでしょ(だから75セントは返す)」(正確ではありません)
スティーヴは25セントだけを払いました。

私達は正当な対価をやりとりするというシンプルなことが、見えなくなっているのです。


世の中の構造を見つめて、誇りを持った生き方を促す映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月29日 07:30

アンナプルナ南壁 7400mの男たち 2012西 パブロ・イラブル

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アンナプルナとは、ヒマラヤ山脈に属する山群の総称で、第1峰は世界第10位の8.091m、南壁の東稜ルートは、最も登頂が難しいといわれていて、10人中4人が命を落とすそうです。
2008年スペインの登山家のイナキが、7400mの第4キャンプで高山病に罹ります。同行していた仲間からの知らせを受けて(またはそれをネット等で自ら見つけて)、世界中から彼を助けるために12名の登山家がベースキャンプに駆けつけます。
その時の様子を、12名の登山家が語るドキュメンタリーです。

当時の映像や写真は限られたものしかなく、映像の大半は、インタビューを受けている登山家達の日常を映しながらの彼らの声です。

イナキの元にたどり着くことだけでも命掛けの行為ですが、彼らは、知らせを聞くと躊躇なく救出のための動きをとります。その心境をはじめ、命掛けで山に登ることの彼らの心内が語られます。(かなりの危険だけでなく、膨大な時間と費用も、自ら背負います)

彼らの言葉は“友人だから助ける”というシンプルなもの。そして、“助けなければ一生後悔する”とも言います。
イナキと、とても親しい者もいれば、山やキャンプで挨拶する位の関係の者もいます。
映画内でも語られますが、彼らは山という国の住民であり友人であり兄弟みたいなものということです。
即席で集まった仲間ですが、目的はひとつで心もひとつです。
また、自らのことを「英雄ではない」と口々に語ります。

彼らに共通するのは、真剣に生きているということです。
命を落としても決して不思議ではない山に行くためということもありますが、いつも体を鍛えています。家族に心配をかけていることも十分に解っています。(家族は自分達の気持ちは解っていないという話もありましたが)
でも山に登ることを決めているからこそ、あんなに真剣に生きれるということが伝わってきます。
後悔しない生き方をしているのです。

結局イナフは助かりませんでした。
彼らは無念でならなかったでしょう。でもそれでも手を尽くしきったことに間違いはありません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月28日 07:28

越後つついし親不知 1964日 今井正

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親不知がある越後の部落の、時は昭和12年から13年の物語です。

主な登場人物は3名。主人公おしん(佐久間良子)は、幼い頃に両親を亡くし、
方々で働き苦労の末、働き者の留吉(小沢昭一)の女房になりました。
留吉と権助(三國連太郎)は伏見の造り酒屋に出稼ぎに行っていたのですが、権助の母が危篤で権助が村に一時帰郷します。
その時に権助はおしんを犯します。運悪くおしんは妊娠、彼女は悩みに悩みます。
春になり留吉が帰り、おしんの懐妊を喜びますが、権助の子とわかり、気が狂ってしまったかのようにおしんを殺害します。
正気に戻り人知れずおしんを葬った後、出征祝いの隊列の権助を親不知から突き落とそうとして、二人で海に落ちます。

救われない話です。
そして、なすすべもない立場のおしんの境遇に悲しくなります。

堕胎しようとするができない。
犯されたことを村人に言ってもたぶん取り合ってくれなかったでしょう。(推測ですが、合意だと判断されると感じました)
かといって留吉にも言えない。しかも留吉は大喜びです。

おしんは少女時代から苦労の連続でした。苦労を重ねてやっと留吉との縁があり、
やっと人並みの暮らし(貧しいですが)を手にしたばかりでこの顛末です。
何のための人生だったのか?と考えずにはいられません。

残念ながら生まれてきた境遇を覆すことができるなんて稀です。

今人は豊かになり万能であるような錯覚を覚える位、何でも自分の思い通りになる世の中ですが、こんなものは自分の力では全くありません。
幸運にも、たまたまそういう世の中に生まれてきただけだと再認識しました。


今井監督の演出はこの映画でも上手いです。
冒頭の権助がおしんを犯す伏線の東野英二郎との会話、ここで権助の動機付けと共に、物語の背景を説明します。
また、おしんと留吉が婚礼の日、豪華な輿入れとすれ違うようにして、二人の質素な輿入れがあります。
それ以外にも、留吉が誤っておしんを殺害してしまい、遺体を運ぶ時にすれ違う子供達。
これら主人公達の気持ちをシーンで代弁させたり、何気ない日常と、起きてしまった異常の対比で効果を高めています。

脇役もそうそうたるメンバーで、贅沢な映画でもありました。

そして、造り酒屋での仕込みの映像や、雪国での冬から春の農作業の映像や、荒れる日本海の風景等々、印象に残る貴重なシーンも多くありました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月27日 07:21

旅の重さ 1972日 斎藤耕一

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少々特異な母子家庭で育った16歳の少女が、
親離れのための葛藤の一人旅を綴ったロードムービーです。
蛹の状態の苦悩と成長がえがかれています。

新居浜に住む主人公の少女(名前は最後まで明かされません)は、
ある日ママに置き手紙して家出同然の旅に出ます。
それに動じないママで、この母子関係から脱け出したいのが少女です。

父を知らない少女、見知らぬ男の元へ通うママ、
二人は母子としての絆もありますが、お互いを疎い存在という意識もありました。
だから、少女が家を出るのは時間の問題でしたが、
それが16歳という早すぎる自律の旅で、だからドラマで、
観る者は、危険な匂いを感じながら、少女を見守ることになります。

勢いで旅に出た少女ですが、
様々な人との出会いで、傷つきもし、苦悩もし、成長もします。
その姿をリアルに捉えている映画です。

被曝した(初老の女性の)お遍路さんとの出会い。
臆病な痴漢のオジサンとの触れ合い。
雨宿りをきっかけに一宿一飯を施してくれる親切な家族(命の?がりを感じる少女)。
旅役者の一座との奇妙な数日間の生活、ここで少女は自律は責任を伴うことや、大人の男と女の姿等の生きる現実が身近になります。
病気になり追い剥ぎ(未遂)にあったり。
その後行き倒れて木村(少女には神様仏様に見える男)という男に助けられます。
そこで出会った女の子は、自分似ていて仲良くなった直後に女の子は自殺します。その姿に自分を重ねる少女。
そんな数々の人生で初めての体験で心身ともに疲れた少女は、
父を重ねていた木村に、自分を受け入れて貰いたい衝動になります。
でも不器用な木村はそれが出来ません。
木村から離れる少女でしたが、もう一度木村の元に行きます。

この後、どうなって行くかは全く解らない少女(と木村)写して終わります。
しかし、少女は母から離れることが出来ました。


思春期に誰もが遭遇する自分の存在意義と自律という
普遍的なテーマです。
少し歪んでいた母子関係が少女にそれを促していますが、
テーマを赤裸々に追ったロードムービーでした。

主演は高橋洋子、脇役で秋吉久美子、二人ともデビュー作のようで、
初々しいと共に好演でした。
脇を固める、三國連太郎、高橋悦二、岸田今日子等含めて、
しっかり作られていた映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月21日 07:32

イチかバチか 1963日 川島雄三

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城山三郎原作ですから、企業と行政を中心とした経済に纏わる社会ドラマですが、
川島雄三監督がユーモアを織り交ぜています。また、個人が持つそれぞれの人(社会)とのかかわりにも言及している映画です。

ケチを貫き通してきて、会社を育てた社長の島(伴淳三郎)は、人生最後に会社と自分の全財産をかけて、会社を自分を大きく成長させる賭けにでます。(この大きなプロジェクトがこの映画の骨子です)
その方法は鉄鋼事業で今までにない規模の工業団地をつくることで、その誘致に積極的になる一地方都市の市長が大田原(ハナ肇)です。
そして島の参謀として北野(高島忠夫)が島に強引に招聘されます。
物語はこの三人と島の秘書(団令子)と大田原の秘書(水野久美)が主で進みます。

島の個性(ケチに徹している)と川島流の演出で、普遍的な魅力ある人物で、この映画の主人公です。彼は最愛の妻を亡くしたばかりという設定です。
彼は、仕事一筋でした。社員ももちろんすごく大事ですが、パートナーでもあり、島は、社員も己とともに大願成就することを願っています。
北野は島の戦友の息子で、息子のような気持ちを持っています。でも企業戦士として北野に期待していますし、それに応える北野です。
そして、行政の代表として大田原(ハナ肇)が伴淳三郎と共に主役です。

表面的には、企業の成長と地方が国から引き出せる補助金の利害が一致した泥臭い話なのですが、内面は人情物語です。その両面を映している所がこの映画の素晴らしい所です。もちろん、笑いを織り交ぜています。

伴淳三郎とハナ肇が活き活きしているのも印象的です。川島演出に乗っています。
二人ともクセがある役にピッタリで、これまでの川島作品にないキャラクターです。(この作品が遺作でなければ彼等は川島映画でもっと活躍したでしょう)
どこまでが私(個)で、どこからが公かがわからない人物です。これはとても魅力があり、滅私を厭わないけれど私(個)も大事にするのです。
世間と個のかかわりをどう捉えているのか、自分が芯に求めているのが何なのかを問いかけてきます。
でもその問いかけがストレートではないのが、川島監督らしさで、登場人物にハチャメチャ(女遊び等)を盛り込んでいます。だから登場人物が真実味を帯びるのですが。

当時斜陽とされていた鉄鋼産業ですが、国のための大儀名分と自己を乗り越える大事と、もちろん会社のためで島が奮闘し困難を乗り越える活躍をします。
大田原もクセがある市長ですが、市民に真摯な人物です。ありきたりな議会とぶつかり合うという構図も見せ場です。
クライマックスの市庁舎での大田原と議会の演説合戦、島の人を観る感覚に、人の泥臭くも可愛い生き方の肯定を観ました。


この映画は、冒頭に20億円の現金が積み上げるシーンがあります。ラストには300億円 の現金を積み上げます。迫力あるシーンで、島はそれを見て、実物を見ないと価値がわからないと言います。プロセスが解らなくなっている現代への警鐘を感じるし、人間の性を語っています。

そして、ラストしシーンは大願成就が決まった後の3人の身の振り方です。
それぞれが今と決別するのですが、これは川島雄三そのものの姿です。惜しくもこの作品が遺作になりましたが、彼はまた違う映画を撮ることを決めていたのでしょう。それが断言できるラストです。
本当に次の作品が観たかったけれど仕方ないですね。





追伸
10/8は「寒露」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「寒露」の直接ページはこちら
寒露

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月09日 05:49

濡れた二人 1968日 増村保造

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この映画の結末は、ファーストシーンで既に決まっていました。
人は答えが既に出ているけれど、それを確かめるために生きているということが、
ままあるものです。

万里子(若尾文子)と哲也(高橋悦史)は結婚して6年経ちますが、まだ子供はいません。
そして、毎年のように旅行の計画を立てますが、哲也が仕事で多忙(東京でテレビ局に勤めている)なために、いつも没になっていました。万里子も仕事を持った自立した女性で、毎年哲也が旅行に行けるという日程で計画を立てるのですが、いつもドタキャンです。
この日もまた同じことが起きました。
けれど今回は様子が違います。万里子は一人で旅に出たのです。

流石にいつもと違う万里子の様子を気遣った哲也は、万里子の滞在先に一日遅れで追いつくという電報を入れます。
万里子はどうせ来ないと思いつつも、仄かな期待を抱いて駅に出迎えにいきます。
けれど、約束の時間に哲也は現れませんでした。

旅行先は万里子の田舎の南伊豆の漁村です。かつて万里子の親が世話をした女中の家で万里子は過していました。
旅先で万里子は、彼女よりも7歳若い哲也とは正反対な野生的な繁男という男に見初められます。
若くて粋がっているだけの繁男の言うことなんて真に受けなかった万里子ですが、強引な繁男、“欲しいものは欲しいという言葉と態度”の繁男に惹かれていきます。
自分にない素直さや、いつも堂々巡りばかりの考えの自分とかけ離れている繁男の生き様に惹かれたのです。

そして最後の最後まで約束を反故にされた傷心から、船の上で万里子と繁男は肉体関係を持ってしまいます。万里子にとって、“自分は変わる”という儀式のようでした。
しかし、滞在先に戻ると、なんと一日遅れで哲也が待っていました。
その夜、哲也にすべてを打ち明ける万里子。哲也もショックではありましたが、万里子を許します。万里子は罪悪感と哲也の愛を受けて泣き崩れます。
翌朝、二人で東京に戻るためにバス停に居ると、そこに繁男が現れます。
バイクで荒々しく愛の表現をします。
揺れる万里子とそれを止める哲也ですが、万里子は繁男を選びました。

その夜、繁男を待つ万里子の下には繁男は現れませんでした。
そして、離縁状が万里子に届きます。


表面上は繁男を好きになったから万里子は不倫したのですが、
繁男が居なかったら、不倫はしなくても、違うきっかけで哲也とは別れたはずです。
何があっても、ひとりで旅に出た時点でこの結末は変えられなかったのです。
最後の猶予は、哲也が一日遅れで追いつくかで、これなら、もしかしたら別れはなかったかもしれませんが、それでも結末を遅らせるだけだったかもしれない位に、この結末は決定でした。

万里子は、今までの自分の肯定を覆す離婚に逡巡していただけだったのです。
もちろん経済的に不足が出ること、仕事を含めた人間関係で離婚を踏みとどまろうとも考ていたでしょうし、だいたいが、離婚そのものが多大なエネルギーが掛かるので、踏み出せなかっただけなのです。

人は惰性という重力がいつも付いて回ります。
私は万里子は今後今以上に幸せになるかはわかりませんが、
不幸になっても後悔はしないように思えました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月08日 07:31

牝犬 1951日 木村恵吾

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自分の欲望のために、カモにした男から大金を搾り取る女。
シメシメとなるはずが、男を追い込みすぎました。
やりすぎで自分の首をしめてしまう結果になります。

マレーネ・ディートリッヒの「嘆きの天使」と似ているファム・ファタールです。
この映画の主演は京マチ子です。相手役の志村喬もですが、
狂気を帯びる役に徹していて、「嘆きの天使」に負けない出来です。

裸一環から真面目に30年間働き続けて、人も羨むまでの社会的地位を獲得した堀江(志村喬)ですが、エミ(京マチコ)とその兄(加東大介)の悪巧みで会社の金300万を横領してしまいます。その一線を越えた理由はエミの豊満な体です。
してやったりのエミ兄弟ですが、ヤクザものの兄は警察へ。
エミはキャバレーを堀江と共に経営します。

堀江は、家族を捨てました。社会的地位も。横領した金もすべてエミに捧げました。
彼にはエミしかありません。年老いた堀江は若いエミに捨てられることが恐怖でたまりませんし、自分のこれまでの人生の全ての代償がエミですから、エミを失うのは人生を失うことと同じです。
エミはそんな堀江が鬱陶しくてたまらなくなります。別れたくて仕方ないのですが、
逃げ場がない堀江は捨て身ですから、堀江から甘み汁を吸ったはずが、堀江に完全に束縛されてしまう結果です。

そんな折、キャバレーに若い男白川(根上淳)が現れます。彼は堀江と正反対で、エミを避ける男です。エミは相手にされないことと、堀江から逃げたいことから白川に惹かれていきます。
それに当然勘付く堀江は、ますます精神が不安定になります。
そこに、経済苦からストリッパーとなっていた娘の由紀子(久我美子)とキャバレーでばったりと遭遇してしまいます。
ますます自己を責める堀江がとった最後の行動は・・・。

主演二人がこれでもかという位濃い演技をみせます。
狂気を帯びていく志村喬、最初は堀江を手玉にとっていたのに、
堀江から逃れられなくなるエミの京マチ子、
二人とも熱演です。

勝負と言っては語弊があるかもしれませんが、
堀江を手玉にとって長い年月甘い汁を吸うとしたら、
あそこまで追い込んではいけません。結局エミは勝負に負けたのです。
勝つためには、堀江を生かさず殺さずが不可欠ですが、その匙加減ができない、過剰にやってしまうのが人ということです。
そんな人の性を強調している映画ですが、人の本質を突いています。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月07日 07:41

自由の代償 1975西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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主人公フランツが身ぐるみ剥がされることは展開上わかってしまうけれど、
これは大金を失う体験までに留めて欲しい。相手方のオイゲン達に腹立たしいが、彼が見た悪い夢、高い授業料だったで終わって欲しいと願いながら鑑賞しました。

階級社会が生む偏見(同性愛に対する偏見にも抵抗しているように見えました)を問題にしていてまた、搾取であっても、知りえる者が得をするという、それが資本主義のルールとも言いたいようです。

フランツとオイゲンはじめ同性愛者(男同士)が多く登場人物します。
フランツは見世物小屋の芸人でしたが、小屋が閉鎖されて金に困っていたのですが、宝くじで50万マルクを当てます。
その金が物を言って、上流社会のオイゲンと恋人になれて、同棲もできます。
オイゲンは製本会社の経営者の二代目で、社会的地位もあるし、教養もあり芸術にも通じている人物ですが、肝心の会社は火の車です。
そこに登場したのが50万マルクを持ったフランツで、彼はオイゲンを愛するし、上流社会と経営者というブランドに憧れて、オイゲンとその会社に次々と貢いてしまいます。

フランツは金の成る木ですからオイゲンは上流社会の、社会的地位があるオイゲンの家族の一員として表向きは対等に扱いますが、芸人上がりで粗野で無知無教養のフランツを真には軽蔑しています。
そして、知らないことを出汁にして、合法的な搾取と、愛を餌にした搾取をしていきます。
愛されているのは形だけということを認めたくないフランツですが、最終的には心が通じていないことに得心しますが、後の祭りです。
そしてフランツは絶望から、ラストの悲劇の死となります。

フランツにも隙はありました。
でも人らしさがオイゲンにあれば、違う展開にとも思うし、腹立たしいのは山々です。
けれど、オイゲンが持つあの、人を食い物にすることに何も悪くも感じないことは、階級の違いという生まれてこの方ずっと抱いていたオイゲンの当たり前の感覚でしかないのかもしれません。
また、無知無能が経営者を目指せば用の中から搾取されるのは資本主義の常識ではあります。

だから、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督は、敢えて悲劇ではない当たり前だという雰囲気でこの物語を描写していたように思います。
それは同性愛に対する描写も同じで、敢えてホモセクシャルが特別なことではないという感じの映画にもなっていました。

でも理不尽であることは間違いありません。(もちろん同性愛のことではありません)

そしてラストのエピソードにも二つの示唆があり、それはこの物語の真意の普遍性の追い討ちです。
ひとつは、早朝の駅で死んでいるフランツを見つけた二人の少年が、おいはぎをするのです。
もうひとつは、フランツの友人二人がフランツの遺体と出会います。二人は、煩わしい問題に係わりたくないということで見てみぬふりです。しかもそのうち一人はフランツの元彼です。(もう一人はフランツをオイゲンに紹介した男)
そしてその元彼ももうひとりの男の言うことを聞いてフランツに二の舞になるような感じを醸しています。
少年二人は、フランツの友人が来たところでフランツから離れますが、友人達がいなくなると、おいはぎを再開するという念を入れたシーン展開で映画を終えます。

最後まで、“これでもか”と否定したくなる人となりをみせる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月06日 07:46
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