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銀幕倶楽部の落ちこぼれ

グラマ島の誘惑 1959日 川島雄三

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喜劇ではありますが、川島雄三なりの反戦映画です。
ちょっと物語として破綻しているところが惜しいですが、気持ちは十分に伝わってきます。

設定が面白いというか微妙です。
戦中、13人が無人島(グラマ島)で暮らすことになるのですが、そのメンバーは、皇族の兄弟(為久大佐と為永大尉)そして二人を補佐するバリバリの軍人の兵藤中佐、そして現地人のふりをしている脱走兵のウルメル、後は全員女性で、従軍慰安婦が6名、報道班で詩人のよし子、報道班で画家のすみ子、グラマ島にはかつて日本の基地がありそこで未亡人になった とみ子です。

為久は食べることと女のことしか頭にありません。為永は生真面目ですが同じく生活力はありません。兵藤は皇族二人には従順ですが、女達の前では威張りちらします。
皇族や軍人には無条件に従うものだという教育をされてきた慰安婦達は、3人の男達に仕えることに何の疑問も持ちません。
とみ子は元々グラマ島に住んでいましたから、ウルメルの援助を受けながら、軍人3人と慰安婦達とは距離を置きます。報道班の二人の女性は男達に反抗的なので厄介者扱いされます。
そんな戦前の軍事システムが、二人の女性の目論見で(慰安婦達に今の生活はあまりにも理不尽であることを説いて)女性全員で反乱を起こし、島を民主社会にします。このあたりがこの映画の一つのテーマです。
でも川島演出は一筋縄では民主化を成功させません。一度は鎮圧された男共は武器を手にして女性を抑えることに成功します。これもかなりブラックな暗喩です。
その後武器はウルメルが奪ってまた民衆主義が機能して6年の月日が流れます。島の近くでは水爆実験があります。それと同時に終戦していたことがわかりアメリカ軍に助けられて、日本編になります。

日本編でも風刺が続きます。経済的に復興している日本で沖縄返還の運動も行われいますし、皇太子殿下の結婚にも浮かれいます。
その中でグラマ島から帰ってきた為久は家族と恋人に捨てられ、為永は事業が上手くいかない、すみ子は「グラマ島の悲劇」という本を執筆しベストセラー作家になりますが、かつての仲間からは反感を買います。慰安婦達は沖縄で商売しようとして逮捕されます。
なんだかグラマ島の生活の方が幸せだったように映ります。
そのグラマ島も水爆実験の場になってしまいます。そこでラスト。

非常に辛辣な隠れメッセージに満ちている映画です。
ただ当初ブラッックな笑いだったのが笑うに笑えない感じになります。
そして、女性達の描かれ方が面白いのですが、それと主題が合っていないような感じでまとまりがない印象になります。
しかしながらこれも川島雄三でなければ撮れない映画だということを感じる個性的な作品であることは間違いありません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月12日 07:36

まごころ 1939日 成瀬巳喜男

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二度目の鑑賞です。
一度目の鑑賞では、二つの家族を通しての深くて優しい人間模様の映画、
そして、プロパガンダ色がありながらそれをも逆手に取って、主題を語っている映画と感じました。それは今回も同じなのですが、二人の子供を通しての親三人の成長物語だということがテーマだと強く思いました。

金持ちの夫婦の敬吉と敬吉夫人の娘が信子、貧乏な未亡人の蔦子の娘が富子、この5人の物語です。
かつて敬吉と蔦子は愛し合っていましたが、敬吉が金持ちの婿養子に行くために蔦子が身を引きます。敬吉夫人は気立てが良い蔦子に嫉妬しています。身を引いた蔦子の夫はとんでもない飲んだくれでしたが、蔦子は健気に尽くし、独り身になっても内職で実の母親と富子を立派に育て上げていました。
が、ある日、敬吉と蔦子の過去のことを知った子供二人は、複雑な気持ちになります。
そんな時に、信子がケガをしてそれが原因で、敬吉は蔦子とばったりと出会ってしまいます。
当然なにも起きませんが、合ったことを知った敬吉夫人は嫉妬から敬吉を責めます。
けれど誤解は解けて。という流れです。

小学6年生、大人に一歩踏み入れた女の子二人が、子供心に親を想う気持ちと、深い友情で結ばれていること、様々な体験から大人になっていく姿が汲み取れます。
それだけで、十分に心を癒される映画で、また、時代から周りの人びとのために(お国のためにも含まれます)という優しさも窺えるし、亡き父親が飲んだくれだったことに傷心する富子とそれを負い目に、そして不憫に思い、蔦子が富子を愛する姿、それを汲んで富子が自立しようとする姿にも、感動します。

それを踏まえて、親たち3人が成長して、結果敬吉はなんのわだかまりもなく出征するのですが、出征はともかく、3人共過去にケリをつけたことが印象的でした。

敬吉夫人は一番わかり易く、嫉妬していた自分を恥じて改心します。物語の流れからすんなりです。
敬吉は、蔦子とはもちろん何かがあるわけでもないですし、蔦子と結婚しなかったことに後悔しているわけではありませんが、婦人に対して、もうこの女はこのまま(自分にとっても娘にとっても良い女にはならない)というあきらめていた自分を、もちろん愛していないわけではないけれど、距離をおいていた関係性を改めます。
そして二度目の鑑賞で蔦子の成長に一番注目しました。
蔦子は、文句なしの女性です。
働き者で、ダメ夫にも尽くしていたし、敬吉の婿に行きたい気持ちを察して身を引くという自分を犠牲にしても他人のためと考え、しかも、それを心の底から願いとしてできる女性です。富子はクラスで一番の優等生なのですが、それこそ、蔦子の姿を観て育ったからに他なりません。
そんな蔦子ですが、富子に真実を、父親が飲んだくれだったことを話していませんでした。もちろん富子を傷つけたくないからですが、いつかは伝えなければということ、もちろん敬吉と愛し合っていた仲だったことも含めて、富子に話すことを「いつか」として躊躇していたのです。今回ちょっとしたきっかけで話さなければならなくなったのですが、やはり話したくないことでした。
敬吉との関係は潔癖で、誰に何を言われることはないのですが、富子に話せない自分を負い目としていたのです。
その自分にケリを付けたのです。
富子の台詞に「おかあさんもさよならしなくちゃね(敬吉と)」があります。
この言葉はこの物語は蔦子の成長物語でもあったことを語ります。

三人三様の成長を映した映画で、心が清くても、ちょっと貧しくても、前に進むことは気高く価値があることを示していたことを感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月11日 07:46

逃走迷路 1942米 アルフレッド・ヒッチコック

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本当に映画造りが上手いです。
あっという間ですし、造り手の戦時中の時代観もしっかりと盛り込まれています。

軍用飛行機工場でサボタージュが起こり、
主人公が犯人扱いになり、どうも世間も警察も信用してくれないから、
自らで潔癖と証明しつつ、新たなサボタージュを防ぐという話です。
圧倒的な劣勢の主人公ですが、
分別ある心優しき人に助けられたりしながら、もちろん二転三転と危機が起こり、
何とか乗り切り、ちょっとしたラブロマンスもあり、そしてユーモアありで、
サスペンスのお手本です。

ハイウェイのカンバンで主人公の心理を観客に想像させて、追い討ちをかけるところは流石ですし、
手紙や手錠の小道具や、クルマに馬にフェリーに、廃墟の町や高層ビル、そして自由の女神を使った演出で次から次へと楽しませてくれます。

彼に味方するトラックドライバーや盲目の紳士、サーカス団は、アメリカの国民は自身で決める自由を持っていることを言わんとしていますし、サーカス団の決議はファシストへの警告です。
また、主人公と悪の親玉との、民主主義と全体主義の主張のシーンは、
当時の戦争の経緯を凝縮しているようでした。
また、その親玉はじめ悪人が裕福なのも風刺が効いています。
悪に手を染めるのは主義の違いでもあり、金をもうける手段であることを語ります。

また、ヒロインが最初主人公に協力をしないで、警察に突き出す気持ちも理解できます。
事の本質を見ないのが人であるのです。この主張は、悪の親玉も語っていますし、ダンスシーンにも現れています。

少しアメリカ寄りの造りは製作年で仕方ないでしょうし、話の展開が上手く行き過ぎも感じますが、とにかく娯楽作品として一級品に仕上がっていることは間違いありません。


人物も含めて細かい設定がきちっとしていて、一瞬でストレスなくこちらに伝わります。とても丁寧に練られているのでしょう。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月10日 07:27

私の男2013日 熊切和嘉

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題名通りの映画です。

主人公は腐野花。
奥尻島の震災で9歳の時に孤児になりましたが、親戚の腐野淳悟の養女になります。
高校生に成長した花は、淳悟を養父以上の存在としています。
父として慕うを通り越して、淳悟に男のすべてを求めるのです。
花が求めるすべてとは、淳悟自身のすべてと共に、花自身のすべてを淳悟に捧げ、それを淳悟に受け入れさせることでもあります。
淳悟は受け入れ、また淳悟も花に女のすべてを観ています。

もし無人島で二人だけで生きているとすれば、何も問題は起きなかったのですが、
残念なことに無人島ではないから、
親子でありながら、常軌を逸する二人の関係が気づかれると事件が起きます。
震災の時から花のことに親身になっている好々爺の大塩の目には、
淳悟の異常さが花を禁断の隘路に貶めているように見えるのです。
だから二人を引き裂く算段をするのですが、
花にとってはその行為は悪魔です。身を守る手段として大塩を殺害してしまいます。
そこからは二人の逃避行で、東京へ。
けれど安住はできず刑事が追ってきます。すると今度は淳悟が刑事を。
という展開です。

この物語はサスペンスではありませんから、二人が犯した社会的な罪への言及はありません。物語を構成する要素としては重要ですが。

花が震災から成長し、二人が二人の世界を完成させるまでの北海道での前半と、
逃避行後、花が大人の女に成長し、花は立場上だけ淳悟と別れ、結婚するまでの後半で、
時間の経過で二人はどうなっていくかということが綴られます。

花が淳悟を、淳悟が花を求めることが永遠には続かないのではないかと、
結局は長い人生でのひと時の戯れになるのではないかと、
私は時間経過で二人が変わるのではないかということがとても興味深く、この映画はそれに応えてくれました。

私の予想は見事にはずれました。
二人が二人を求める心は永遠だったのです。
振り返れば当然でした。
お互いはお互いのすべてなのだからです。

花にとって淳悟は、恋人で夫で、父で、そして息子です。淳悟も同じく花は恋人で妻で、母で娘です。
切れるわけがないのです。

花は、奥尻島での震災での心的外傷が、
淳悟は、子供の頃の家族環境があまり好ましくなかったことが、この根深い関係の原因ということを映画は仄めかしますが、それらは二人が寄り添うことになる引き金でしかない、原因のひとつでしかない、位です。少なくと私は映画からはそう解釈しました。

だからもっと大きな力が二人に働いていたはずです。
それは何かまではピン来るものはないのですが、
花が淳悟に、淳悟が花に、すべてを求める心の動きは特別なものではないということが、私の心の中にも潜むことも否定できなくて、また、ひっかかります。

映画では淳悟は最後は甲斐性なしのダメ親父に成り下がっています。
けれど、花を愛する結婚の相手を含め、登場する二人の若者(将来性も経済力もある)にまったく負けていないのです。
花にとって必要な男としてです。

社会的に優位に見える価値観を否定しているかのようなラストです。
人と人との関係性は何よりも勝ると言いたいような描写です。

花と淳悟は互いに永遠の存在です。
ただ社会的には二人の関係は認める訳にはいかないというだけなのです。
二人はそれを取り除いてしまって二人の世界を築いていたのです。
そしてそれは何事にも換えることができないものだったのです。





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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月02日 06:53

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名も無き男の歌 2013米 ジョエル・コーエン、イーサンコーエン

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意地だけは一人前の売れないフォークシンガーのルーウィンが、覚悟を決める物語でした。

1961年のニューヨークのカフェで弾き語りをするルーウィンから始まり、
街を彷徨い、旅に出て、家族に会い、自分の往く道に悩み、でももう一度カフェに帰り、封印していた歌を歌います。
これからも、自分の意のままに行こうというルーウィンですが、どうにもこの後も前途多難を匂わせて映画は終わります。

ルーウィンは、この後も多くの人に認めてもらえることもなさそうだし、いい年で食うことにも事欠く生活も変わりそうもない。けれど、“俺にはこれしかない”そんな覚悟が窺えます。

売れないといってもルーウィンは実力が十分にあります。ニューヨークでも旅先でも、プロヂューサーの意向に沿えばソコソコの暮らしはできそうです。
また、金儲けも立ち回りもどうにも下手糞のようで、それもあって裏目裏目で上手くいきません。
でも信念だけは譲らない強さ(意地)があります。
それは、亡くした相棒との約束なのでしょうか?
単に彼が固執しているだけか?それは解りませんが、ルーウィンは生理的に、
自分の歌を歌う以外は受け付けないのです。

家族とも上手くいってません。まあ良い年で売れないフォークシンガーで、人に迎合しない性格ですから、宣なるかなです。

この物語はカフェではじまりカフェで終わる間にルーウィンが関わりある人達と彼なりの決着をつける物語です。
音楽仲間(そのうちの一人の女性とは妊娠騒動があった)、亡き相棒と組んでいた頃からの支援者、父(家族)、そして自分です。

ラストに相棒と一緒に歌っていた歌を封印から解きます。
表向きは、きっとこのままでしょうけれど、自分の中だけですが覚悟を持ったルーウィンです。それを私自身に重ねて勇気を貰った、嬉しくなる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月26日 07:46

道中の点検 1971ソ アレクセイ・ゲルマン

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同じ国の人間同士が殺しあう悲劇。
もちろんそれが起きたのは大きな力に対して個の力は無力だからです。
しかし、裏切らなければならないにしても、
裏切った男は苦悩から抜け出ることができません。最期まで。
そういう映画でした。

舞台は第二次大戦のソ連。
ドイツ軍とパルチザン(ゲリラ)が争う村です。村人も戦火に追われる激しい戦いが日常化しています。
元ソ連軍の伍長ラザレフが、パルチザンに投降してきました。
彼は、已む無くドイツ軍に参加していたソビエト人のドイツ兵でした。
投降しても、同じ国民でも、裏切り者としてドイツ軍の捕虜として扱われます。
軍の者達はドイツのスパイではないかと疑いますが、
隊長のロコトコフは彼が本気であることを信じます。
ラザレフ自身は、作戦に参加してそれを証明しようとします。

ラザレフは、ドイツ兵の捕虜ですから処刑されてもおかしくないという立場です。
彼はドイツ兵として同国人を殺害することもあったし、
今は、同国人にドイツ兵として見られ、同国人に処刑されるかもしれません。

こんな状況にはもちろんなりたくてなった訳はありません。
ソ連兵時代にドイツに占領された時に、死か寝返るかの選択を迫られたのでしょう。

そんな自分が許せないけれど、パルチザンとしてなかなか受け入れられないという悲劇です。

ラザレフは、作戦の成功のために必死です。
彼は裏切り者のままで死ぬことは、
死んでもできなかった男でした。


物語の最中に、パルチザン側が橋を爆破してドイツの貨物列車を川に沈める作戦がありました。
橋に爆薬を仕掛け、列車を待っていると、橋の下をソ連人の捕虜を詰め込むだけ詰め込んだ船が、丁度列車が通る時に橋の下を通ります。
パルチザンの工作員達は爆破することをためらいます。
同胞まで道連れにできないからです。
なのに、各所ではラザレフのような者達ができていっています。

戦争は何でもありになります。
その犠牲は途方もないことを、今まで気づかない視点で見せる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月21日 06:10

愛の嵐 1973伊/米 リリアーナ・カヴァーニ

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生存の保障が崩れてしまった中で生きることで、精神を破壊された女ルチア、
彼女を破壊した男マックスと二十年ぶりに偶然出会いました。
どうしてその男に身を寄せてしまったのかを図ることは到底できないので、
彼女の行動は彼女にはそれしかできなかったと思うしかありません。

そんな二人をはじめ、戦後12年経っても戦後なんてない人物が登場し、悲劇が起こる物語です。彼等の心に残るものを消すことは一生できないのだと認識するのが精一杯でした。

強制収容所で権力を振るう側にいたマックスは、支配された老若男女の中から美少女のルチアを見つけます。
仲間が次々とおもちゃのように殺されていく日々に、彼女はマックスの慰み者となり生き永らえます。

有名な指揮者の夫と幸せな日々だったはずのルチアでしたが、1957年、夫の演奏のために訪れたウィーンのホテルでホテルマンとして働くマックスと出会います。
一刻も早くそこから逃れたいルチアでしたが、どうしてもマックスから離れることが出来なくなってしまいます。
夫がウィーンから次の公演に旅立ってもルチアはマックスの下に残ります。

マックスはナチスの残党に警戒されていました。そこに強制収容所を知る生き残りのルチアが現れたので、彼らはルチアも警戒します。マックスとルチアは残党達に命を狙われてしまい、マックスのアパートに篭城になります。
収容所時代のような、監禁と命がいつ果てるかの恐怖の中で二人は過去に得た快楽を貪るようになります。けれど兵糧が尽きていくに連れて疲労する二人、どうすることもできず、死に装束としてマックスはナチス時代の軍服に、ルチアも収容所時代と同じような服を纏い、アパートを後にします。二人を待っているのは残党達からの引導でした。


常軌を逸したシーンが続けざまに続きます。
マックスもルチアも目の前の意識しかない表情です。
飢えた中で食料があれば貪る、相手と快楽を求める欲望が出ると体を求めあう。恐怖に襲われると狂ったようになる。
そして残党達も同じです。戦時の精神のままなのです。

命がいつ尽きるかも解らない中で破壊された精神も、
弱者をなじることで意識をつないだ支配する側にも壊れた精神という代償があり、
彼らには戦後なんてないのです。
死ぬまで戦時のような精神で生きているしかない、そんな映像でした。


深い深い傷しか残らないのが戦争です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月20日 07:14

私が結婚した男 1940米 アーヴィング・ピシェル

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ナチズムに感化された集団を醒めた目で観る映画ですが、
私も私が気づかない何かに感化されているはずです。
ただ、それが社会的に問題にならないだけで。

1938年ドイツ、大戦前夜ですが、すでにオーストリアは併合され、チェコに侵攻しています。ドイツ国民の多数はヒトラーを支持し、ドイツ人(アーリア人)は優れた民族として他国を侵攻することは当然という意識になっていました。
この映画は、そんな渦中にニューヨークに住む3人の家族が夫の故郷のドイツに旅行に行っての出来事です。
製作年が示すとおり非常にリアルに、当時のドイツの人びとの心理と、国家が国民よりも優先される様子、その異常さと感化された彼等を観る米国人の妻の視点が描かれいます。

夫のエリックはアメリカ人の妻キャロルと長男の3人でニューヨークで不満なく暮らしていました。3ヶ月の休暇をとって故郷に帰国するところから物語は始まります。
当時のドイツの現実は見事にナチズム一色でした。
エリックは幼馴染の女と合い、徐々にナチズムに傾倒していきます。

キャロルはなんとか夫を連れて帰国を希望しますが、エリックがナチスに入党した事実を知り、長男を連れて二人で帰国することを決めますが、エリックは長男をキャロルに渡そうとしません。
滞在中なにかとキャロルに親身に接したアメリカ特派員の協力を得て長男と帰国をしようとしますが。


エリックとキャロルはニューヨークの友人に、友人の兄が収容所に入れられたので、賄賂で出所させて欲しいという依頼を受けます。(500ドルという大金を使って)
しかし哲学者(思想家)の兄は既に抹殺(表向きは病気)されていました。
それをはじめ、情報統制や違法行為、そしてアーリア人以外の民族への差別と迫害がまかり通る世の中を映します。

映画ではエリックの父親が重要人物として描かれます。
新しいドイツという風潮に警戒しています。
彼は「戦争が起こった方が良い。狂った人がまともになるにはそれしかない」と言います。
もう破滅する未来を迎えることに逃れようがないことの悟りです。

そんな父親に対してエリックと幼馴染の女はなじるばかりです。このあたりは演出でもあるのでしょうけれど、国家に楯突く者が親だったとしても許さないという、人でなくなっている姿を強調します。
そしてキャロルが帰国を決めた時、エリックは長男をアメリカに帰しません。その言い分は「子供は国家に帰属する」です。「ドイツにいれば勇敢な男になれる」とも言います。
それに対して父親は「子供は国家の前に母親に帰属する」「それが自然の摂理だ」とエリックに言いますが、エリックと幼馴染は受け付けようとしません。

人はこうも感化されてしまうのか、という図です。

ラストはエリック出生に纏わる衝撃の事実が父親から明かされて、エリックは絶望し、キャロルと長男は無地帰国の途につくことができます。


ナチスが台頭した背景は複雑ですし、もちろんヒトラーはじめとした戦犯の責任は多大です。でも民衆がいとも簡単に、簡単ではないかもしれませんがあれだけの変貌をしたことや、人を人とも思わない人間になったのは事実です。
自分の価値観なんて本当にあてにならないと思わずにはいられませんでした。






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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月19日 07:13

さらば、わが愛/覇王別姫 1993香 チェン・カイコー

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中国の伝統芸能の京劇の二人のスターとその一人の妻の3人の人生を通して、
中国の近代史を語っている大河ドラマです。
3時間という長い尺からも推測できましたが、
京劇を再現している舞台、衣装が素晴らしい、それだけでなく、
清朝末期から、日本軍の占領時代、戦後の国民党の時代から共産党政権になり、文化大革命までの中国を丁寧に再現している大作です。

幼少時代に知り合った二人の男はやがて京劇界を代表する役者に成長します。
小楼と蝶衣です。女形の蝶衣は小楼を兄と慕い、友情を超えて愛情を持つようになります。
そこに現れた菊仙は小楼と相思相愛で妻になり、ここから3人の三角関係が始まります。

二人の代表作が覇王別姫で、この劇のクライマックスは、四面楚歌で絶望になった楚王のために最期まで添い遂げる虞姫の愛の舞と自決です。

どんな政権になっても京劇の舞台は必要とされますが、二人の思うようにはできなくなります。
それがピークに達したのが文化大革命で、京劇も破壊されます。

京劇という芸術でしか生きられない二人の運命は翻弄されます。

多くのエピソードがありますが、印象的なのは、蝶衣が阿片に溺れるところです。
蝶衣は小楼への愛を表現できるのは舞台の上での虞姫の時だけでした。現実では菊仙がいます。
だから蝶衣は阿片に頼り、舞台を現実にすり替えようとします。
虞姫になりきっている蝶衣の美しさは男とは思えません。女以上の美しさです。
その蝶衣に現実は残酷なのです。


映画は文化大革命が終わり、京劇が再び脚光を浴びる時代を映し、すぐに1934年に飛びます。そして順に時代がくだり、最初のシーンに戻ります。
そのラストは、蝶衣が虞姫に完全になりきり、楚王(小楼)の前で剣の舞をして自決するところで終わります。

この前段階は文化大革命で、楚王がそうであったかのように小楼が共産党員につるし上げられて四面楚歌になるシーンです。

この物語は劇中劇を演じる役者に現実を重ねながら、中国を語るという脚本で、大きく揺れた3人と大きく動いた中国が重なり見応えがありました。


蝶衣を演じたのは、幼少時代、少年時代、そして大人になってからの3人の俳優ですが、幼少時代、少年時代の2人ともに中性的で女形の雰囲気が漂っていました。
そして圧巻はレスリー・チャンです。
妖艶さ、美しさ、舞台上での映えある様にはうっとりしました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月16日 07:38

17歳 2013仏 フランソワ・オゾン

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彼女は私(観客)を拒絶します。
映画の中で彼女に関わる人びとも拒絶します。唯一ジョルジュを覗いては。
彼女の名はイザベラ、17歳です。


夏、経済的に恵まれているイザベラは家族とリゾート地でバカンスの最中です。そして、17歳の誕生日前夜に、行きずりの男を相手に処女を捨てます。
彼女にとっての儀式です。

秋、イザベラは二十歳と偽り体を売ります。金が目当てでも、快楽が目当てでもありません。そして、同世代には目もくれません。まるで思春期をもう通り越したように振る舞います。
多くの男と関係します。たった一度の交わりです。けれどただ一人ジョルジュとだけは何度も会いました。そしてある日、行為の最中にジョルジュが持病の心臓の病で、心臓麻痺で亡くなります。

冬、警察がイザベラの母のところに行きます。彼女の裏の姿が明らかになり動転する母、自己を責めますがイザベラにとってそれは全くの的外れです。
その後、表面的な行動は更生の最中のイザベラです。彼女にとって売春は手段(何のためということが映画のテーマです)ですから、それをやらないことは何でもないことです。そんな時に同級生の恋人ができます。自然に肉体関係になりますが、その途端にイザベラは彼を捨てます。

春、イザベラは、ジョルジュの妻が彼女に会いたいことを知ります。ジョルジュが亡くなった部屋で会います。ジョルジュの妻は自分が知らない夫の姿を確認したかったのです。そしてその姿を自分に重ねるイザベラです。


イザベラは、家族も含めて誰も彼女を分かり合える人はいないと考えていました。
一番近いのはこれから彼女と同じ17歳を迎える弟ですが、彼は若すぎです。
そこにジョルジュが現れました。
ジョルジュはイザベラを無条件で受け入れる人物です。
今までとは違うイザベラが初めて接する人でした。でも彼はあっけない最期です。
イザベラはだから誰も受け入れないままでした。
そこにジョルジュの妻との出会いがありました。
彼女はイザベラに近い女、将来の彼女を想わせる女でした。


17歳という年齢の私は何を考え何をしたかを追想します。
何をしたかよりも、どうしてその時にそのことをしたかにこの映画の真価があります。
イザベラの行動は、17歳の欲求やあせりです。
新しいものを求める欲求、果てしなく自分を試す欲求も自然です。
また自分自身に対して劣等感を強く持ったり、だから存在を確認したくなったりもします。
私もそんな17歳がありました。

振り返って、
やらないこと、やれなかったこともあります。
ジョルジュの妻もその事に言及します。
その差(ここではイザベラは売春し、ジョルジュの妻は売春ができなかった)は、
ほとんどありません。
結果として問題になるかは別ですが。


イザベラは孤高でした。特別な存在でありたかったのです。これはごく真っ当です。
私も全く同じです。しかも大人になろうとする時の高揚とした時です。
特別でなければ何のために生を受け、これからがあるのでしょう。


いつの頃からか、おとなしい態度になっています。(自分のことです)
蛹はある時に達すると蝶になります。イザベラが変わったことに重なります。でもそれは人生で一度だけです。

いつの頃からか、おとなしい態度になった私は蝶になった頃を、
この映画で思い起こします。

イザベラ17歳の映画です。
彼女の行動に理屈はありません。また誰かに迷惑をかけることもその気持ちもありません。結果がそうならなくても。

ラストの彼女の笑顔は、蝶になったけれど羽ばたいていないイザベラが羽ばたくことを示唆していました。

私は大人になんてなっていないと思う時があります。
でもそんなことを思う時は体のいい時だと、自分勝手だとわかります。
大人になる前は、もっと鮮烈だということをフランソワ・オゾン監督は語ってくれています。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年06月26日 06:07
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