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【SPAC演劇】真夏の夜の夢

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演出 宮城聰 作 ウィリアム・シェイクスピア 潤色 野田秀樹

人はとかく物事を曖昧なままにしてしておきたいものです。
人は基本的に怠惰ですから、決めないことで責任が生じないことを選び勝ちです。それに曖昧にしておくと夢見がちでいられます。
「真夏の夜の夢」は、主人公の“そぼろ”が自分の心の奥、自分では気が付いていない自分の本音の部分を知る旅の物語ですが、自分の心の奥にある本心が何かなんて、曖昧にしておきたい最たるものです。

老舗割烹料理屋のハナキンの娘“ときたまご”は四日後に結婚式を控えています。相手は父親が決めた板前のデミですが、別の板前のライと相思相愛です。どうしてもライと一緒になりたいそぼろは、ライと「知られざる森」へ駆け落ちをします。幼馴染のそぼろにだけそれを告げました。そぼろはデミを慕っていたことから、駆け落ちのことをデミに伝えます。ときたまごを追うデミ、そのデミを追うそぼろ、4人は知られざる森で不思議な体験をします。

知られざる森は、妖精たちが棲む森でした。ちょうどその頃、オーベロン王とタイテーニア女王は、拾った赤ん坊が原因で夫婦喧嘩の最中でした。オーベロンはタイテーニアを意のままにするために妖精パックに惚れ薬を取ってくるように命じます。早速パックは出かけますが、途中で悪魔メフィストに捕まります。パックに化けたメフィストはオーベロンやタイテーニア王を騙した上に、二人からの依頼を受けて契約を取り付けます。この契約が破棄される時には人間の憎悪が増幅するというものでした。

ときたまごは、ライからもデミからも愛されています。それに対してそぼろはデミを愛していてもデミには嫌われています。森でデミを追うことすらデミに嫌がられるそぼろですが、ひょんなことから惚れ薬の効果でデミにもライにも突然愛されることになります。それを戸惑うそぼろです。

知られざる森とは、人間がそこに迷いこんで不思議な体験をしても森からでる時には人間は何も覚えていないことから名付けられました。そしてここには人が置き忘れたものがたくさんあります。
この森に棲む妖精は逆隠れ蓑を着ない限り人には見えません。だからここで起きたことは人は気のせいだと思っています。この演劇では気のせいは「木の精」という定義です。そして、「人は見えないものは信じない」ということもキーワードです。

私は、知られざる森はそぼろの深層心理で、表層から深層へとそぼろが辿っていく物語だと思いました。
迷い込んだ4人の若者達は表層の意識の中で、惚れ薬によって愛する人を代えてしまいます。そこは表層に近い願望です。
メフィストはそこから一歩踏み込んだ自分が知りたくない自分を知る案内人であり、そぼろが持つ悪の感情そのものでもあります。
そして、オーベロンとタイテーニアをはじめとした妖精は悪の感情のもっと奥の善意であったり生きる知恵で、森自体が奥深く広いそぼろの深層意識を現していると捉えました。

ライとデミは最初の惚れ薬でそぼろを愛し、ときたまごを憎みます。でもそぼろは、二人は自分を愛しているそぶりをして茶化していると思い込みます。
「人は見えないものは信じない」逆に言えば見えるものを信じるということです。愛を叫ぶ二人の男は見えるものですが、そぼろはその見えるものを信じませんでした。
だから、実は人には見えないものを信じる能力があるのです。しかし注意深くその能力を封じています。何故なら自分の本音に近づくからです。これはまだ序章で、この物語はこの程度の旅で終わりません。
ライとデミの二度目の惚れ薬ではなんと、二人が愛しあうことになります。それを解消するためにはメフィストの契約を破棄しなくてはなりません。契約破棄をすると、二人は憎み合い争いを始めます。これもそぼろの心です。デミを愛しているし愛されたい裏にデミを破滅させたい、また、ときたまごと上手くいっているライやときたまごに対してのルサンチマンです。
まだ続きます。メフィストはそぼろに言います。「言葉にしなかった言葉(飲みこんだ言葉)がこの森にはたくさんある」と。飲みこんだ言葉はその人の本音です。そして人に知られたくない自分だけが知っていると思っている感情です。一見、言わなかったことは他人には伝わっていないようですが、実は他人も気づいています。「人は見えないものを信じる力」がありますから。
これに関しての問題は、自分の悪の感情は他人には気づかれていないだろうということを自分に言い聞かせていることです。
メフィストが全部知っていたのと同じように他人も意識しないだけで知っています。ただお互いにそれを曖昧にしていたいので、言う側も言われた側も意識しないようにしがちなのです。
物語は、そんなそぼろの飲みこんだ言葉が森で具現化していきます。まさにそぼろの悪の感情が森に火をつけて森は焼き尽くされていきます。そぼろは自分の奥にある心がどんなものだったかを目の当たりにするのです。
そしてメフィストはオーベロンとタイテーニアの夫婦喧嘩の原因になった拾われた赤ん坊だったことも明らかになります。メフィストはそぼろ自身でもありますから、森に火を放ったのはメフィストであっても、焼き尽くすのはそぼろの奥の奥にあった本心であり、そぼろの心の叫びです。
でもこれは誰しもが生きてきた中で抱える、悲鳴をあげたい鬱屈した感情です。

この演劇は壮大な森を想わせるセットですし、衣装も楽しませる凝りようだし、音楽も照明も心を浮き立たせます。軽妙な言葉が飛び交い、また洒落の効いた言葉も飛び交う喜劇として楽しめますが、「あたしの精」「目が悪い精」「耳が悪い精」「年の精」等の登場人物の役名といい、これらの言葉を含めて少々毒がある言葉が台詞にも使われているので、一筋縄ではいかない喜劇だという感覚になります。
案の定で、そぼろを自分に置き換えて劇を観ると、逃げ出したくなります。自己の心にある嫌な部分が見えるからです。そして普段は、常にそれを見ないようにしていることも明らかにされるからです。

でも最後は、メフィストの涙で森の火が収まります。森を鎮めるメフィストの涙ももちろんそぼろの心の現われです。心の奥には悪意や悲しみだけではないし、人は悔いることも出来て純真な気持ちをいつでも持つことができることの表現です。
だから、嫌な部分を含めてもあなた自身には価値があると言ってくれているようでした。


自分の心の奥にある本心は、綺麗ごとだけではありませんから、日常で意識していることとは往々にして異なるものです。だからそれを観にいくのはあまり気が進みません。
けれどそれを観てそれを受け入れるのは大事なことです。普段意識していない自分の心を含めて自分自身なのですから、それを踏まえないと成りたい自分になんてなれるわけがありません。また、それを認めると自分にも他人にも今よりも優しくなれることも間違いありません。
演劇「真夏の夜の夢」は、本当の自分を観る勇気を与えてくれます。

【いもたつLife】

日時:2014年03月26日 07:38

2014年3月の治作

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若狭のワカメ
今晩は春がテーマでしょう。
香りがとても良いです。


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生湯葉とウニのべっこうあんかけ
生湯葉もウニも、どちらも余韻が続く上品な甘さで、
相性抜群です。
噛みしめるように美味しさを感じます。


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稚鮎ご飯
春を先取りです。
ほろ苦いのがこれほど美味しいと感じるのは、
この料理ならではです。
身のほろ甘さとごはんの旨味、そして絶妙の塩加減です。


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お造り さより、 ミルガイ、アカイカ、ヒラメ、マグロ
ミルガイ
歯ざわりと瑞々しさ、そして磯の香りと貝の甘みです。
ここで青海苔、これだけでもご馳走です。
アカイカ
イカの美味しさはもちろん、とろけるのです。
食感がそんじょそこらのイカとは大違いです。
ヒラメ
浦島太郎もこういうヒラメを食べてたから、
竜宮城に居残ったのでしょう。
さより
これも今晩のテーマの春です。
瑞々しい美味しさです。
マグロ
トロける中トロです。
赤身のうまさにトロを足した味です。


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お椀『 蛤しんじょと筍のお椀』
はしりの筍を食べることができるだけでも幸せです。
まず香りの心地良さに惹かれます。
春ならではの木の芽の香り。
そして最小限の味付けだからこそ筍と山椒とこごみの風味が活きています。
そして蛤しんじょの力強く上品な味と汁を飲む。
至高ですね。


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八寸
ホタルイカとアサリと九条ネギと浅葱のぬた
味付けが素材の良さを引き出しています。
単品でも惹かれる味付けで、
一緒に食べるとこれがまた美味い。


春菊とカシューナッツの胡麻和え
これも春です。ほろ苦さと香ばしさが前面、奥にコクがあります。


ここで、
大根とカラスミ
大根も瑞々しい!
カラスミはヤバイです。


アオリイカのワタ和え
これもヤバイです。
全部食べたら菊姫が無くなります。
イカの身がイカのワタと最高にマッチしています。

鯖のたまごの煮こごり
珍味です。
生姜を効かせているので、鯖のたまごの食感と魚らしい味が
すんなり味わえます。
煮こごりの甘みが足されて、これも酒がいくらでも進みます。


イイダコのやわらか煮
今回はタコの頭入り。
臭みは全くなく、ほろ甘さがあります。
大根はたっぷりとタコの味付け、
タコ自体はタコらしい食べ応えです。
上手いのは言うまでもありません。


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胡麻豆腐
これだけでは足りないほど、もっと食べたい。
治作の胡麻豆腐は、素材をどう活かすかのお手本です。


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焼き物
太刀魚
上品でありながら野性味もあるのが太刀魚で、
それをいかんなく引き出している
焼き加減と塩加減です。
そしてとても食べやすくしてくれています。
この気持も料理の一環です。


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煮物
赤むつ
魚好きにはたまりません。
身も肝も眼肉も頬肉も口まわりも、
その味を引き立たせています。
出てきてから食べ終わるまで一気です。
貪りつくように食べました。


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野菜炊き 甘鯛の蕗味噌あんかけ
野菜がたっぷりです。
しかもひと仕事有りの野菜で、甘鯛と野菜の旨味が封じ込めれた
お椀のような美味しさの料理でした。
治作の新しい看板料理に発展するかも。


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へしこ茶漬け(写真撮り忘れ)
へしこの美味しさを追求した結果です。
へしこを中心に何を加えたら、へしこのうまさを損なわないかです。
梅、浜納豆、三つ葉・・・それらの脇役がちゃんと仕事をしています。
ちゃんと仕事をさせているのです。

水菓子 ブドウとグレープフルーツのゼリー
これも春でした。
味の演出が春なのです。
スッキリと後味がする春の料理の締めくくりにふさわしい
ちょっと苦味が優しいグレープフルーツと、
ほろ甘いブドウのデザートでした。







追伸
3/21「春分」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「春分」の直接ページはこちら
春分
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【いもたつLife】

日時:2014年03月21日 08:38

Foodex2014

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今年もフーデックスに行きました。
勉強のために焼酎の試飲と唎き酒に挑戦しました。
普段日本酒(菊姫)ばかり飲んでいるので、
焼酎の魅力を堪能しました。

その他には、輸入物が原材料から、半加工品、加工度が高いものというように、
同じ素材でも細分化されて輸入されている傾向が高いと感じました。

それ以外には、商品化において女性主導の商品が一段と増えているのも感じました。

【いもたつLife】

日時:2014年03月09日 08:58

戦士の休息 落合博満 著

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著者が映画を語るということで、もちろん野球との絡みもあるだろうということで、
手に取りました。
他の著書でも感じていましたが、著者は野球に対して非常に真摯です。この著書でもそれが窺えるのですが、映画を通しているところが面白いところです。

著者なりの映画観は同じ映画好きとして共感できる部分とそうではない部分がありましたが、著者が「映画は自分が面白いと思えば恩白い」ということは大いにうなづきます。
また映画は成功の娯楽だと、再三再四言うことも同意で、楽しく読ませてもらいました。

出版社の要望もあり、映画と野球を絡めての部分も随所にあります。
それらは、野球と映画が通じるものがあるということをただ書いているのではなく、
どちらの事象でもその奥を探る思考の末、通じるものとそうでないことがあることを示しています。
著者は野球のことを深く深く考える人というのは相変わらずですが、野球だけに留まらない人だとわかります。
しかしそれは当たり前で、常に物事を深くとらえるから野球でもということなのです。

だから、著者が常に考えているのは、自分の生き方なのでしょう。
後悔しない人はいないでしょうけれど、著者はそれを出来る限りしたくないし、しないようにしています。
たまたま生涯の仕事が野球になっただけで、野球以外でも偉大な足跡を残せたでしょうし、それを支える普遍的な著者の考え方を知ることができる本でした。

【いもたつLife】

日時:2014年02月19日 07:00

つながる読書術 日垣隆 著

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世の中には凡人には想像もできないほどの、
膨大な量を読破していく人がいます。著者もそのひとりです。
著者の「本」についての向き合い方と、「読み方」そこからの人の生き方、
そしてお勧め本の紹介でした。

本はキョーヨーを養うのに必須で、受身の読書から、攻めの読み方にすることで得られるものが違ってくることと、とにかく訓練、量稽古が肝要です。

また、私が一番印象に残ったのは、「著者の土俵を自分の土俵に変換していきましょう」です。読書は自分を鍛えること、そして真実を観る眼を養うことという著者の想いが詰まっているところです。

また全体を通して、著者の生き方がにじみでているのも好感でした。

【いもたつLife】

日時:2014年01月22日 07:39

2014年1月の治作

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春の酢の物
うるい、ハマボウフウ、みる貝、蛸の吸盤の酢の物です。
春の香りのハマボウフウを、控えめな酢が引き立てます。
みる貝の甘みと蛸の食感も楽しめます。

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お椀
白味噌仕立てのお雑煮。
とっても綺麗なお雑煮です。
京芋、京にんじん、京大根、めかぶ、
香ばしく焼いた餅、肉厚のエビです。
上品な味わいと、
アクセントの辛子がきいて後引くお雑煮です。

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お造り
マグロ、ヒラメの昆布締め、水蛸、アオリイカ
細かく包丁が入ったアオリイカは見栄えも良くなり、
ねっとりした食感もより味わえます。
水蛸は蛸好きにはたまりません。
足の太いところなので食べ応えもあります。
ヒラメの昆布締めは旨味もましますが、
食感も変わります。
舌にまとわりついて美味しさを残します。
きめが細かいマグロです。
これもマグロ好きにはたまりません。
菊姫 特選純米がすすみます。

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腐乳ご飯
この料理も芸術です。
腐乳の旨味、蛤の旨味、アクセントに山椒、
それらを受け入れて控えめなな主張の餅米、
至福です。

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八寸
かぶら寿司、カラスミと京大根、黒豆、ふきのとうの胡麻和え、
アオリイカのワタ焼き、ナマコの柚子酢、春菊・蓮根・クルミ・三つ葉の胡麻和え、
アオリイカのゲソ・九条ネギ・ヌタヤ貝のヌタ。

ネギと辛味がアオリイカとヌタヤ貝の美味しさ引き出します。
野性味を上品に仕立ててあるナマコ。
春のほろ苦みが堪能できる、ふきのとうの胡麻和え。
胡麻和えは食べていて安心感溢れるあじわい。
ワタ焼きはイカのワタが如何に美味しいか満喫です。
かぶら寿司はブリの食べ方として技ありです。
京大根でひと息ついてカラスミでまた菊姫 特選純米がすすみます。
プロの技の黒豆で舌鼓して、
もう一度八寸で酒を飲みました。

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焼き物4種
牛ステーキ
本日の治作おすすめの一品。
優しいけど奥に野性味があります。
滅茶苦茶やわらかくて、うま味も豊富で大満足です。

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鰆の西京漬け
鰆は料理しがいがある魚ですが、
この西京漬けはベストに近いです。
余すことなく引き出すという言葉がピッタリです。

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太刀魚
こんなに肉厚の太刀魚は初めて見ました。
それをふわふわに焼き上げています。
太刀魚は美味しいとわかっていながらそれを超える美味さでした。

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甘鯛
これは欠かせません。
いつも骨までしゃぶります。
この甘鯛に申し訳ないほどに
甘鯛のたくさんの部位の美味しさをしゃぶりました。

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かぶら蒸し
熱々のかぶら蒸しです。
かぶらと百合根と甘鯛が相乗効果です。
春の料理と冬に体を温める料理を出してくれる優しさも味わいました。

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スッポン雑炊へしこのお茶漬け

スッポン雑炊は冬を乗り切る料理、
へしこのお茶漬けは春を感じさせる味わい、
なんと贅沢なんでしょう。


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黒豆のお汁粉
今回は、お正月と春と、王道の冬の味覚を盛り込んだ料理でした。
その締めくくりにふさわしい
なめらかな口当たりが良い上品なお汁粉です。
金箔はあけましてはおめでとう演出してくれていました。

【いもたつLife】

日時:2014年01月13日 07:36

【SPAC演劇】忠臣蔵 作 平田オリザ 演出 宮城聰

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太平の時代に『武士道』を貫いた赤穂浪士、忠義を尽くし主君の仇を討つその舞台裏を、独特の解釈で描いたこの忠臣蔵は、牙を失った武士でも大儀を成していけることを示唆しています。
それは同時に、平和ボケ、飢えも知らず、国に頼ることを恥じない風潮、都合が良い生き方が許される社会、そんな現代人でも大事を成せることへの希望が込められていました。
ただ、劇全体を包む喜劇性は大事にたどり着くことは容易ではないことも感じさせています。

劇は家老の大石内蔵助と6名の宮仕えの侍達による、藩と自分達の今後の身の振り方を決める場面が主です。浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内で切り付けたことで即日切腹、吉良はお咎めなしの報を受けた直後です。
篭城か、開城か、おとなしく他への仕官を求めるか、忠義を尽くして切腹か、はたまた吉良を討ち取るか、喧々諤々です。
喧々諤々の中身が洒落ています。保身と打算に感情論、日和見に、思いつき、そんな卑しくも正直な気持ちの大前提を踏まえての議論は、「幕府の理不尽な裁定と、それに対する抑えがたい武士道精神」という構図は微塵もありません。
そして主君の死さえもひとつの出来事として相対的に捉えて、淡々とクールに自分達の今後を面白おかしく憂う姿は、傍からの印象であって、当事者達は真剣そのものの本音です。
主君の無念を晴らす仇討ちは確かに大事で、もちろんやり遂げたい、でもその大儀で自分はどうなる、家族はどうなる、そもそもそんなことが現実的か。
ならば無慈悲な幕府の言いなりになるのか。篭城で自らの身を守りつつ憂さを晴らすのか。それも嫌だし、それを認める自分を許せない。
そんな本音が無自覚でも確固たる意志として議論されます。それを現代的な演出にして上質な喜劇に仕上げています。

「関が原から100年経った今、我々は武士道はなんなのか見失っている」という台詞があります。『武士道』を背負っているのが武士だという幻影が、武士とはこうでなければならないという価値観を無視できない状況を作り、それに縛られた姿を見せています。
巷の忠臣蔵ではこういった気概の浪士達を賞賛しています。それも人が持つ普遍性であるから、忠臣蔵が今も皆が求める物語足りえるのですが、赤穂浪士全員が足並みそろえて討ち入りに向かっていったということはありえません。この仇討ちが美化されているとまでは言いませんが、案外この忠臣蔵の侍達のやりとりのようなことから討ち入りが出発していたとしても不思議ではありません。
赤穂浪士の行為の聡明さや一途な精神はこの事件後の後付の評価です。事件から300年、多くの見解があります。平田オリザさんや宮城聰さんも自分の思惑として(強調しているとしても)、こんな顛末があっても良いと考えての演出には私も共感します。
ただ「こんな顛末があっても良い」の奥には、侍達が真摯に藩に向き合っていることが絶対条件です。それは真面目な仕事ぶりと、結果的には可笑しくなるけれど真面目な会話で表現されていました。そして、飄々とした内蔵助の中に実は武士道精神が潜んでいるからこそ忠義が実現したということも、この劇で触れているというのが私の解釈です。(これは劇中の内蔵助の遊びの衣装での振舞いと最後の釣りのシーンからです)

この忠臣蔵は、討ち入りを決めるまでの議論を見せています。
吉良を討ち取ることが侍達の総意であり、固い意志であり、だから成しえたという物語とは全く違った、そんな想いとはかけ離れた遠いところで討ち入りが決まっていったという喜劇です。
だから、この劇の後日談として吉良が討ち取れたと仮定すると、侍達は最初は出来るかどうかは半信半疑で、仕方なしに内蔵助について行ったら事を成しえたということになります。
しかもその時の四十七士はエリートばかりではありません。なにしろ劇中の議論で決まったことは、「他の大名に仕官したら無理に討ち入りに参加しなくても良いよ」という内容で、これだと優秀な者ほど抜けていきます。でも行き場がなくなった必死の者が残るというのがメリットともいえます。(劇中に仇討ちを成功させて、助命を受ければ士官の先は引く手数多というシーンがあります)それにしても現実的ではありません。
でも大儀が適います。
その、“結果成しえてしまった”という所が、この忠臣蔵が、牙を抜かれた闘争心に欠けてしまった現代人にも、大儀を成すことができるという賛歌だと思うのです。
もちろん相応の努力が前提になりますが、揺るぎない決意がなければ出来ないのではなく、外堀を埋めるかのように粛々と環境を整えることで、いつのまにか出来ていたというのが私達が事を成せる本来なのです。

でも繰り返しますが、勤勉であること、力を蓄えていることが前提です。
この忠臣蔵においても結果大儀を成し遂げたとしたら、偶然に任せたとはいえ、容易ではない事です。
ここには、喜劇仕立てにして敢えてそれを匂わせないけれど、どんな世でも「自らが欲することは、自らが備えていた分だけが適う」ということと捉えました。
そう捉えるのは私の心の癖かもしれませんが、この演劇も真実を語っていたと強く感じますからあながち外れてはいないと信じています。


【いもたつLife】

日時:2013年12月23日 07:19

クレイジー・ライク・アメリカ イーサン・ウオッターズ著 安部宏美訳

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ちょっとした体の変調に、
「いつのまにか病名を付けられ」「直らない薬を飲み続ける」
こんな馬鹿なことがまかり通っています。

アメリカが決めた基準で精神疾患者とされて、
アメリカが世界各地で正義の押し売りをしていることを事細かく4章に渡って解説されています。
1、 香港の拒食症
2、 スリランカの津波被害者のPTSD
3、 ザンジバルの統合失調症
4、 日本のうつ病
これらは皆、アメリカ発の余計なお節介で生まれた本来なら病気ではない、
または、アメリカが決め付ける病気ではないものばかりです。
もちろん余計なお節介を焼くのには訳があります。

日本の例はそれが一番わかりやすいでしょう。
急速に増えたうつ病患者はすべて自発でこれほどまでの患者数になっていることはないことは、自明です。

もちろんストレス社会であるからこそ精神疾患者が増えているのですが、
それを良いことに病気と、それを直すための直らない薬の輸出をしています。

形を変えた侵略に思えて仕方ありません。

【いもたつLife】

日時:2013年12月12日 07:30

【SPAC演劇】サーカス物語 作 ミヒャエル・エンデ 演出 ユディ・タジュデイン

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人の尊厳への問いと、現代社会への風刺と警告、そして人が生きるために不可欠な愛し愛される愛の物語ですが、私が感じた一番のことは、『自分を偽らなくても良いよ』という許可を得る演劇でした。
劇中劇が終焉に至る時に、あの完璧な存在とされたアングラマインでさえ自分を偽っていたことに衝撃を受けたからです。

物語は、二重の螺旋構造で進みます。
主人公達のサーカス団は、人びとから必要とされていないことからの行き詰まりに直面しています。唯一打開できる選択はスポンサーである化学工場の広告塔となることですが、その条件は団員の一人である障害者のエリを排除することです。何故ならエリは化学工場の責で障害を負ったからです。
団員達が明日からの糧の確保を選ぶことで失う代償は、一生消えない自らの品位を落とす行為です。
そんな差し迫った現実の中でもエリは無邪気にピエロのジョジョに物語をせがみます。優しいジョジョは、エリと自分との愛の物語を作り聞かせます。この劇中劇がサーカス団の現状と彼らが下さなければならない決断への葛藤の様になっていきます。

劇中劇はエリ王女とジョアン王子の物語です。“明日の国”の王子ジョアンは、大蜘蛛アングラマインに国を奪われます。ガラスの城にいるエリ王女は、魔法の鏡カロファインが映すジョアンに恋します。エリ王女は城を出てジョアンの下に行くかを悩みます。何故ならエリ王女は、ひとりでガラスの城にいる限り、何の不自由もなく、しかも不老不死だからです。ジョアンを探すことは、人としての苦悩を背負うことになります。しかもジョアンと相思相愛になれるかも、そもそも出会うことができるかもわかりません。
でも、エリ王女は城をでます。

現実世界では団員達がエリを捨てるかの選択を迫られます。何故捨てない選択に躊躇してしまうのか、それは捨てなければ生きられない強迫観念が襲うからです。たしかに経済的には苦しくなってしまうのですが、そんなものはあくまで虚構です。現代人はあまりにも物質に頼り過ぎてしまいました。生活する上で必要でないものまでが、無ければならないと教育されています。それは他の人達が持っているから?あれば安心だから?それはあくまで表層的な理由です。本質的な理由は、心を満たすために人と触れることを避けようとすることです。モノがすぐに手に入るのをいいことに、物質で心を満たそうとする行為です。その方が簡単だから。そして、これも自分を偽る行為です。
こういう現代社会の構造は、アングラマインが支配する明日の国と同じです。明日の国では人は蜘蛛の巣に手足を縛られて生きています。その姿は無駄を捨てること、効率こそが優先されるべきであるとされること、そして人がそれに合わせるものだという社会が作り上げた幻想概念で縛られていている我々の姿そのものです。
しかも劇中劇のエリ王女もジョアン王子もアングラマインにより、過去の記憶が消されていました。私達は本来の喜びを想像できる力があることすらも封印されていることの暗喩です。

物語は、サーカス団がギリギリの選択を迫られて、にっちもさっちもいかなくなる境界線に追い込まれた時に、新しい展開になります。
障害者のエリはエリ王女だった。ピエロのジョジョはジョアン王子だったことを、二人は愛し合っていたことも想い出し、現実世界から劇中劇のアングラマインが支配する明日の国へと足を踏み入れます。
この展開ももちろん、現実世界でサーカス団が化学工場とどうやって立ち向かうかの決断への葛藤に繋がります。

それにしてもミヒャエル・エンデは人の愚かさを認めながら、崇高さも信じているようです。エリは知的障害者であり、ガラスの国の王女です。ジョジョもピエロであり、勇敢なジョアン王子です。どちらかではありません。どちらも彼ら自身です。
この社会では人が持つたまたまの一面だけでラベリングすることが行われています。それは愚かな暴力であり、それが発動されている世を嘆いているかのようです。

その後演劇は、エリとジョジョがエリ王女とジョアン王子に戻り、サーカス団員と共に“明日の国”を奪回するためにアングラマインに戦いを挑みます。観客は二人と彼らの活躍を期待する場面です。
しかしアングラマインの下に行く前に大きな谷間ができていました。谷間は彼らを阻みます。この谷間はアングラマインが作ったのではなく、ジョアン王子の意識でできたものだと明かされます。ここもエンデの皮肉です。弱者にも過ちがあるのです、強者は過ちだけではないのです。

ジョアン王子は「愛と自由と創造」でアングラマインを倒します。ここでもう一度現実に戻ります。エリとしてジョジョとして、サーカス団も化学工場の要望を受け入れなければ明日がないこの演劇の振り出しの現状へ戻ります。
アングラマインをやっつけたって、もちろん何も変わっていません。
でも団員全員の意志で、化学工場との契約書を破り火にくべます。後を絶ちました。絶望を選んだようにも見えます。彼らの目の前は苦で満ちたことを暗示させて幕になりましたから。

彼らが何を選んだのかは明白です。“偽らない自分”を選んだのです。その時に彼らは自由を得る体験もしました。たとえ目の前に迫る現実が物質的な困窮から逃れても、自分を偽る限り自由は得られません。逆に自由を得ても困窮という状況は何も変わりません。しかし今まで持てなかった希望を得ることができます。
絶望の中では希望を持てないのではありません。絶望と希望はどちらか片方しか存在しないのではないのです。
“自分は何者か”そこから逃げないことが生きる根源で、生きている証なのです。

【いもたつLife】

日時:2013年10月30日 07:28

異邦人 アルベール・カミュ 著 窪田啓作 訳

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「一人の平凡人の長所が、どうして一人の罪人に対しては不利な圧倒的な証拠になりうるのか」
「ひとはいつも、知らないものについては誇張した考えをもつものだ」

主人公ムルソーが何故銃を撃ったのか
「それは太陽のせいだ、といった」

ムルソーは己を客観視しています。
何故なら、彼がかかわるあらゆる人との関係が、あまりにも虚飾だけだから。
彼は聞かれたことに対して、それ以上でもそれ以下でもない本心を話すと、
答えられた方が戸惑うことが最初から最後までこの小説に詰まっています。

聞き手はいつも答えて欲しいことを答えて欲しくて聞きます。
御大層に大真面目に。
ムルソーはそんな世界と決別したかったのかもしれません。

たとえば災害に合った時、
もし一人ならすぐに逃げる行動をとります。
もし十人でいたとしたら、一番遅い十番目の人に合わせて逃げることになるでしょう。
社会が機能している状態というのは、そういうことです。
不条理であることを、『そんなことはない』と全員で大合唱しているようなものだということを、改めて強く強く感じたのが率直な感想です。

もちろん常日頃私自身もそれで社会からの恩恵を受けています。
でもそういう仕組みであり、
そういうルールであることは心得ていなければなりません。

【いもたつLife】

日時:2013年10月29日 07:23
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