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いもたつLife

【SPAC演劇 「母よ、父なる国に生きる母よ」 ヤン・クラタ 演出】

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世界一強固な絆で結ばれている、愛し愛されているとされる母娘関係に疑惑を入れて、逆転となる憎悪と支配の関係を成立させて、人の世界の始まりから現在に至るまで続いてきた争いの源を覗く。それが私にとっての「母よ、父なる国に生きる母よ」での体験でした。

太古の昔からという日本語訳と太鼓とアカペラで始まるこの演劇冒頭で私は、映画「2001年宇宙の旅」で類人猿とモノリスが遭遇したシーンを思い起こしました。
時空を超えたシーンで、母娘を引き合いに出して繰り返し同じテーマを語っていることからも哲学的な「2001年宇宙の旅」が重なります。

元々、母が子を宿り産み落とすのは神聖なことです。そしてその絆はけっして切れるものではないし、母が娘を思わない時は片時もありません。
けれどそこに何の疑いもしないで道徳論だけで「そんなのは当たり前」としないのが、「母よ、父なる国に生きる母よ」です。

強固な愛の反作用があるのではないか?
母も所詮娘を支配しているのではないか?
そんな疑問を感じる演出です。そして、愛していることと憎悪の表裏が母娘の間に互いに存在することを確認します。それは、母と息子ではそこまで強くはならない憎悪のような気がします。もちろん、父と娘、父と息子でも同様です。母と娘だから、母にとって娘は自分より後にまた子を産む存在だからという、女同士の負けられない本能があるからのような気がします。
それはおいて置いて、演劇はこの絶対的に思える絆の母と娘さえも憎悪の関係になることを、人が刻んできた歴史の様々なシーンで再現、証明します。
ナチスドイツによるポーランド占領とユダヤ人の殲滅を表すシーンでは、その根本原因のヒトラーが、彼の幼少の頃の父、母との憎悪の反復でないかを示唆します。
現在はかなり解決に至っている黒人差別や先住民への迫害問題の場面でも、個々人による違いの大きさがありました。それも元になるのは、家庭での生育の影響が大きいはずです。
また、エイリアンの登場も子孫を残すことへの言及です。エイリアンと人は子孫を残すということで相容れることができないことから争いになりました。エイリアンは人が憎いから恨みがあるから人類を滅ぼそうとしたのではありません。子孫を残すことの過程で人類と争うことになりました。子孫を残すことができる女性としての定めには、母と娘は仲が良いという優等生な関係は、平時だけなんだということを見せ付けられます。
そして、家父長制度についても強く触れます。私はこれについては、男も女も上手くいっている時だけ機能するもので、本来どちらも(特に女性が)納得しているわけではないと考えています。お互いの都合が良いだけで、お互いの支配の按配でバランスをとっているだけです。

以上の4つのシーンの根底にはどれも、愛すべき母と娘の関係の裏返しの、母が娘を支配する構図、お互いが憎悪を持っているということがあるのではないでしょうか。
この事実を認識することはとても辛いことです。でも突き詰めると人の争いの解決に繋がることでもあるということに気がつきます。この演劇が言いたい最終地点はそこなのだと解釈しました。

太古の昔から始まったこの演劇は、強い歌声とリズム、衣装も無機質な色合いで、時折ユーモラスな演出をはさみますが、全体的には演者から主張を感じました。それが最後は華やかな衣装とハーモニーの歌です。そこには望みはかなうことが織り込まれています。

母と娘という神聖な関係の中に支配や憎悪があり、それが世界中の争いの源だとしたら、解決するのはたやすいはずです。母と娘が喧嘩するのは、ほんの些細なことからと相場は決まっています。そしていつの間にか仲直りします。

ただし厖大な時間の中で世界中のいたる所で何度も、いろいろな形で起きてきた争いがたやすくなくなることは、現実にはあり得ないことかもしれません。けれど、解決できる関係であることを信じるのはとても有益だと思うのです。

本来あらゆる人間関係の中で最も強く清いのが母娘関係なのだから。

【いもたつLife】

日時:2013年07月05日 07:30

【SPAC演劇 「室内」 クロード・レジ 演出】

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落語と真反対の方法で人の生きる根源に迫る『室内』では、観客は異空間でそれを否が応でも突き詰めることになります。

舞台は闇に近く、音さえも遮断されます。観客は衣擦れの音にまで敏感になり、今から始まる演劇に覚悟を決めることになります。
そしてまさしく闇と沈黙になり、目を凝らすことで認識できる幕開けを迎えます。仄かな動きで始まるこの演劇は、観客がこの空間世界のルール、意識を集中することで感じるという嗜みに気づく頃に動きを見せます。その動きも台詞も、私達が居る世界とはかけ離れたスローなもの、それは敢えて日常を重ねさせないことを意図したものです。

落語では、私達にどれだけイメージを膨らませるかに知恵を絞ります。それとは真反対にこの『室内』では演劇自体を、個々人が自然にイメージしてしまう像、己自身の投影を拒みます。まっさらな状態で、この微妙な役者の動きと穏やかな台詞を身に染み付かせることを促します。
そこに置かれることにより、観客は役者陣の一挙手一投足からこの演劇の本質を見極めざるを得なくなります。

『室内』は人の生き様に迫ります。落語と真反対の手法だと私は感じましたが、落語が粗忽者を通して人の業に迫る目的があるので、真反対の『室内』でその狙いが重なるという妙味も感じました。迫る元の地点が、粗忽者と、少女の死を告げる者という、かけ離れた設定であっても、観客はそこから本質へ考えを巡らせるからです。
最も“生きるとは?”を真っ向から感じること、考え抜く空間が『室内』で、そこに居ることができたことに震えるような喜びを感じる自分がいたことを伝えたいのも本音です。

溺死した少女の死を告げる二人の使者の、老人とよそ者は、少女の死を知らぬ家族に事実を告げることを躊躇します。
二人はそれぞれの視点で家族を観ます。娘の死を知らないで幸せな日常を過ごす家族を観たり、不幸な出来事を告げることで奈落の底に堕ちる家族が観えたり、いつ誰がどこでどうやってこの事実を告げるのが正解かと模索したり、娘を失った事実を知ることになる家族の悲しみを同じように背負うことで、自分を納得させようとしたりと、知らせるという使命からそれを飛び越えた価値観を自分達が請け負い、それがまるで自己の人間性を問うことにつながる価値であるかのごとく認識し、伝えることに逡巡します。
独立したそれぞれの個ということが本来であるのに、そこから離れられない(この場では、少女の死を家族や係わった人達とどれだけ共有することができるかを美徳として、個人の感情はそれに従うことを優先されること)のは、社会に生きることで植えつけられた価値観です。
この二人の使者と、溺死した少女を看取った者達は社会的な使命を果たしただけです。それ以上でもそれ以下でもないのですが、そこから悩みや苦しみが生じますし、亡くなった少女とその家族を慈しむ想いは、家族を知れば知るほどに大きくなります。しかしたとえ個を優先しなくてもそれを感じるのが人間です。
だからその姿を純粋に感じればよいのですが、私はこの劇中常に結論を求めていたことがあります。それは“生きるとはどんなことなのか?”です。

生きるための日常の営みの中で、心から感動することが一年の内に数回あります。生きた充実感を堪能する時です。そしてそれは自分自身にはけっして嘘偽りができない、その自分が幸せだと腑に落ちる程の時です。少しその感覚とは違いますが、冠婚葬祭もそのひとつである場合もあります。
けれど、そんなことさえも生きている常の一部なのかも知れないことをこの劇で感じます。

もちろん今の世の中では生存を生きる目的の第一にすることもないですし、子孫を残すことさえも、先進国に限っては生きる第一義に挙げることは意味を成さない気がします。
自殺以外で自分の生きる期限を知ることはできませんが、年を追うごとに残りの時間を強く意識するようになります。そこで死を少しずつ身近に感じるのですが、やっぱり期限を知らされることはありません。そしてやがて迎える死の間際では後悔するのは明らかです。なぜなら、生きてきて“もっとやれたのに”と誰もが思わずにはいられないのが人ですから。
そうするとこの劇で使者二人は何を憂うのでしょう。
亡くなった少女と、遺された家族の娘に対しての哀れみ、家族の落胆と娘に対してこれからはもう何もしてやれないという取り戻せない家族達の現実を感じること、それらを憂うのではないでしょうか。二人は何も特別なことをしていません。

私は、生きる日々の中で輝いている自分がいる一瞬が生きることの意味かと思っていました。また、子を想う気持ちや親を慕う気持ちを持つこと、また、家族や親戚や友人が一同に会する時、それらが生きる意義という気持ちがありました。
それを否定するわけではありませんが、もっと飾り気なく、死ぬまで生きるのが生きる意味なのではないか。それを考えるのが『室内』という劇場、小宇宙にいた時間の中で導いた、生きる根源に迫った結果でした。

【いもたつLife】

日時:2013年06月27日 07:41

【SPAC演劇 黄金の馬車 宮城聰 演出】

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神への畏敬と人への賛歌が込められているのが「黄金の馬車」です。
ラスト、一座と貴族が一体となった劇中最も力強い歌と演奏は、舞台で生きることを決めたカミーラを称えると共に、神へ捧げる行為でもあります。
この演劇は、観客がSPACの黄金の馬車という演劇を見ながら、演者の村人と一緒に、セット内の『古事記』の劇中劇を観ます。劇中劇の古事記で人の営みの大きな流れを表現しながら、本筋では人々の日常を映します。誰もが持つ、仕事、生きるための恋愛、どこにでもあるそれらの常を、大きな営みの流れと対比して観られるという構造です。

食い詰めた田楽一座は京から土佐の田舎に降り立ちます。黄金の馬車とともに。
田舎連中は京から来た劇団に興味津々といった様子、そして今まで観たこともない黄金の馬車に憧れます。村人達は最初は京から来たブランド(一座)をありがたがりますが、だんだんと我儘になります。一座の劇『古事記』が解らないという不満をぶつけます。
一方一座も最初は自らの劇(信念)を貫こうとしますが、劇を重ねるごとに村人達に迎合するようになります。この背景には貴族からのカネも絡みます。本来カネは一座の仕事への報酬ですが、カネが一人歩きしてカネのための芸に変わります。村人への公演も“嫌われたくない”が動機になっていきます。
村人のわがままや、貴族の嫌らしい振舞いを、私達は俯瞰します。それは、私達の中にもある気持ちだということを実感させられます。

カミーラは、役者として確固たる意志と誇りを持ってこの地を治める領主に、本名と役名を告げます。けれど彼女も人です。カネは必要ですし必要以上に欲するし、恋もすれば喧嘩もするし、ないものねだりもします。
カミーラは古事記の相手役でもあるフェリペと相思相愛です。フェリペは潔癖で勇気もありますから、カネや地位に溺れることを嫌悪します。カミーラがそれらを求めると、フェリペは彼女の下を去ります。潔癖であるが故と嫉妬から。
カミーラは弓矢の使い手のラモンにも愛されます。彼は勇敢でこの地の英雄です。村人達はラモンを慕っています。だからラモンが愛するカミーラを受け入れます。カミーラが黄金の馬車を手に入れることも受け入れます。それが彼女の破滅につながるとしても。
そしてもう一人、富も名声も権力も持っている領主にも愛されます。領主は日和見な他の貴族と違い、自らが正々堂々と執政していることに誇りを持っています。そして領主は、それらを象徴する『黄金の馬車』をカミーラに与えます。カミーラが舞台上でも舞台下でも輝いていることへの賞賛です。それと、男の本能としてのカミーラへの力の誇示です。

カミーラは、土佐に希望を持って降り立ち、信念を貫く芸を披露していました。領主もラモンも輝くカミーラの虜になります、しかし俗受けの重力に逆らえず、迎合していきます。しかしそれでもラモンにも村人にも受け入れられ、黄金の馬車を手にできます。そして3人の男から求婚もされます。しかしそこで自らを振り返ることになります。ここから物語は急転します。一座は解散、領主は島流し、フェリペもラモンも厳罰です。

カミーラは悩みます。『舞台ではうまくいくのに、日常ではうまくいかない』ことを。そしてどっちで生きているのが本当の自分なのかを。

カミーラは自信を持っていたのですが、ないものねだりをして自信を失います。潔癖で勇気があるフェリペだけでなく、民衆の英雄ラモンや、富・名声・権力を持つ領主をも求めること、信念ではない演技をすることをしました。全ては気に入られたい迎合の行為からです。そしてその裏側には保身の気持ちがあり、挑戦への逃避です。

カミーラはいつしか神に捧げることができない演技をしていました。彼女には演劇しかないのに。カミーラは全てを舞台に捧げていたこと、自らの人生が演じ手としての中にしかないことが良いか迷ったのです。それは今の自分を信じられなくなっているから起こります。
ある年齢になると、人生が何なのかと悩むことは誰しもあることです。カミーラも自らの今までが正解だったのか悩み、舞台に捧げてきたことが自らが求める人生の障害になっていたのではないかと錯覚してしまったのです。
それは私達にも起こります。ずっと取り組んできたもの、信じてやってきたことを重く受け止めないようにすることがあります。
しかし、ここから抜け出すのは簡単です、今までの良かったことを確認することです。私の場合は仕事です。これまでもこれからも死ぬまで仕事を続ければいいのです。

この演劇でカミーラは舞台が全てで良いという選択をします。彼の地に来て公演を始めたところから、迷いに堕ち、一回りして舞台を選択することには大きな意味があります。何故なら力強い選択になるからです。

カミーラは黄金の馬車を手放すことにしました。一座や領主、フェリペ、ラモンを救う結果になりましたが、それが目的ではありません。もう一度舞台で輝くことを選択しただけです。舞台の上も下もそんなことは彼女の人生で区別を付けることではなかったことに気がついたからです。
舞台に全霊を注ぎ込むことで“神に近づける”それがこの演劇のクライマックスでした。
常に迷い悩み怠惰なのが人間で、その人間への讃歌であり、神を祀るという人の英知が表現されていました。ここを迎えた時に自然に涙が流れました。心に訴えてくる演劇の証です。

それにしても何故劇中劇が古事記なのかという疑問での観劇スタートでしたが、劇が進むごとにその訳がわかりました。
神々と人との対比、人が神を演じることでのほころびが見えるということの効果もありますが、カミーラが若い男神を演じ、求婚を迫る3人の姫をフェリペ、ラモン、領主にすり替えるところは見事です。神への畏敬が込められていることも含めて、だから古事記だったのだと納得の瞬間でした。

最後に触れたいことがあります。
カミーラとラモンとの最初のやりとりで、「牛を見る目で見ている」というカミーラの台詞、ラモンが一座の言葉を理解できないという設定、また、領主がカミーラの前で烏帽子をとることでの他の貴族の驚き、そしてこの藩が銀山で潤っていること、フェリペ・ラモン・領主が姫とすり替わる時にコメディア・デラルテのように仮面を付けていたこと(まだ他にもありそうです)、それらからジャン・ルノワールへの敬意を感じました。ここも宮城聰さんらしいところだと感銘を受けました。

【いもたつLife】

日時:2013年06月24日 07:24

脱線!スパニッシュ・フライ ヘルベルト・フリッチュ 演出 【SPAC演劇】

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落語にでてくる登場人物が、暴れまくる喜劇です。
落語では場面をイメージしますから、自分の想像の範囲内です。
この演劇はそのイメージを立体化してくれます。
しかも、こちらの想像をはるかに超えて“ぶっ飛んで”くれます。
そのハチャメチャさに理屈なく楽しめます。

あり得ない けばけばしい衣装や髪型は、ハチャメチャを後押しし、
誇張した振舞いや仕草や顔つきは、まさに落語から飛び出してきた八五郎や熊五郎です。
粗忽な奴らばかりで、当然大ぼけもいるし、早とちりも、大真面目もいます。

あらすじは、
25年前に浮気をして子供が生まれたと言われ、
養育費を払い続けていた主人公の下に、その息子が現れます。
奥さんにだけは知られてはならないと、裏工作を始めます。
すると、養育費を払っていたのは自分だけではないことが発覚、
しかも息子だと思っていたのも勘違いとなり・・・。

自分がこうだと勝手に決め付けると、
周りを全てそのモノサシで見てしまうという人の愚かさを見せ付けられます。
この姿は誇張こそしていますが、本質は誰も同じでそれを笑い飛ばします。

登場人物が、自分で計る周りの景色は、その時々の内面の投影です。
主人公ならば、奥さんへの負い目、バレル不安、息子を追い出す時のあせる気持ち、
一蓮托生だったことがわかった時の妙な安堵感、
次から次へと内面のドキドキ感が爆発される舞台上です。

終わってみれば結局なんだったんだ。
走りまわったのは何のためだったんだ。
お前の人生の一大事なんてそんなものという痛烈なメッセージです。

そして、謎のままになるスパニッシュ・フライ(浮気相手)とその息子と養育費、
それらの謎も愚かさの代償だったことを教えてくれます。

【いもたつLife】

日時:2013年06月20日 06:15

FOMA2013

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国際食品工業展、ここ数年毎年来ています。
検査機器を中心に見て回りました。
印字ミス、ピンホールの検査等、品質管理をより問われる中で、
それらの機器には少なからずの人だかりです。
検査機器に限らず、
野菜を自動洗浄、自動カット、
チャーハンや焼きそばの自動調理等、
今までよりも機械が作業する分野が広がってきていることも感じました。

【いもたつLife】

日時:2013年06月16日 08:04

ポリシネルでござる 【SPAC演劇】

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演出・出演 エステル・シャルリエ、ロシュアルド・コルネ
製作 ラ・パンデュ

フランスの人形劇団ラ・パンデュの人形劇で、
主役はポリシネルというどちらかというとアンチヒーローで、
彼はイタリアで生まれたといわれています。

人形劇ですから子供達も多く観劇していましたが、
子供達が憧れるヒーローではありません。
ハチャメチャで意地悪、暴力ありの内容ですが、
動きがコミカルかつ大胆、観客に対してあっと驚くいたずらもあり、
笑いが絶えない一時間でした。

二人での劇で、一人は幕の中で人形を操り、
もう一人は時には人形とのやりとり、時には人形を遣う役割です。
二人が人形を遣う時間は圧巻で、
スピーディあり激しい動きあり、こちらが追えないとみるやスローモーションありです。

観客を引き込み参加するように誘導するところも上手く、
乗せられます。


劇の内容は結構辛辣、
ポリシネルの、行き過ぎたいたずらでは済ませれない行為は罰せられることなく、
しかもそれを継承するミニポリシネルの誕生で幕になります。
フィクションで片付けられない、妙に的を得ていて
苦笑いで終わります。

【いもたつLife】

日時:2013年06月11日 07:44

春風亭一之輔のドッサリまわるぜ2013

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一之輔師匠の全国ツアーの独演会です。
師匠の落語は初体験でした。

前座さんの『たらちね』
師匠の『初天神』『夏泥』仲入りで『青菜』でお開きでした。

結構毒がある枕、落語中もそれは同じです。
3演目共に35分くらいでまとめるのも師匠のスタイルでしょう。
最も旬の落語家の前評判どおり3演目とも上手く、楽しめました。

『初天神』はきん坊の悪ガキぶりはかなりのもの、
師匠の地じゃないかと思えてくる程、成りきっていました。

『夏泥』も強弱の按配が絶妙で、
身振りも初天神の動と打って変わって静で演じます。

『青菜』この噺も好きな噺です。
とにかくありえそうな植木屋のバカぶりが見所ですが、
そこへの盛り上げ方が良かったです。

真打昇進から一年、まだ35歳と年も若く、
ますます贔屓客ができるでしょう。

【いもたつLife】

日時:2013年05月27日 06:42

お茶摘み

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年中行事のお茶摘みでした。
暖かい春の影響で、
いつもより1週間から2週間早い日程になりました。

ところが、
4月下旬は遅霜を心配する気候になり、
葉っぱの伸びはいまひとつでした。

それでも午前中のタイムリミットまで
(お昼にお茶工場へ持っていくため)
一生懸命に摘んで無事終了です。

午後は宴会。たっぷり菊姫を飲みました。

【いもたつLife】

日時:2013年04月30日 07:42

2013年3月の治作

久しぶりの治作です。


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若狭の若布

磯の香りがプンプンです。
今日は春が満喫できる予感です。

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ごま豆腐

治作の定番中の定番料理。
治作に来たことを実感、
ごま豆腐に『おかえりなさい』と言われている気分です。
もちろん、今回も絶品でした。


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稚鮎ご飯

ほろ苦く、ほろ甘い、ほろ旨い!
鮎もご飯も熱々!
鮎だけだと、これ以上ない肴、
ご飯と食べれば上等な鮎ご飯です。

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お造り

まずカツオから、
さっぱりしていて、舌でトロけます。
そしてカツオらしいおいしさ。

次はアジ。
これもさっぱりしつつ、甘みがのっています。
そしてめちゃくちゃ新鮮。アジの旨さはそれに尽きます。

そしてウニ(ミョウバンなし)、
雑味が全くない治作のウニはいつも感心です。
ちょっと他のウニとはまったく別物といつも思い、
今日も実感です。

赤貝
貝の旨さを一番感じられる赤貝です。
そしてヒモは、その味が凝縮されています。
菊姫鶴の里が進みます。
そして赤貝の肝、
これも活きているからこそで、
肉とヒモの両方の味が楽しめます。

このお造りをずっと食べて鶴の里をずっと飲んでいたくなります。


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(スペシャル:イカの肝焼き)
(塩が利いてて、酒が進みます)
(しょっぱさがギリギリです、流石)


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八寸

九条ねぎ・ホタテ・アサリのぬた
美味しいねぎです。ホタテとアサリも。
“ぬた”という料理があるわけがわかります。

鱈の白子
どうしてこんなにちり酢と鱈の白子が合うでしょう。

焼いて出汁に漬けたセロリ
酢と深みがある味つけで、箸休めに最高です。

白バイガイ
さっきの赤貝とはまた違った貝の旨さです。
美味しさの食べ比べもできて楽しい一品。

蛸のやわらか煮の大根
蛸を感じるし、大根のシャキシャキも楽しめます。
ちょっとしょっぱい田舎風の味つけが泣かせます。

竹の子・アボガド・明太子のせ
竹の子も美味しいのですが、
アボガドと明太子の組み合わせで食べると
また一段と竹の子が引き立ちます。
そしてなんてたって美しい料理です!!

サヨリの棒寿司
山椒の香りがいい。ご飯とサヨリ、これも春です。

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焼き物:鴨

元々好きですが、大満足です。
そして鴨に白髪ねぎと辛子、これも鴨好きにはたまりません。


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焼き物:赤むつ

とろけるという単語を何度も使っていますが、
これが極めつけです。
そして、目や頬肉、骨周り、
味付けが上品なので、全てを堪能できます。


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焼き物:アマダイ

こちらは塩味でキリッとした旨さです。
こちらも目に頬肉に骨周りをキリッとキッチリ堪能です。


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まる鍋

どれもメインになる料理の中ですが、やっぱり風格があります。
なんて上品で旨いのでしょう。
すっぽんの力と親方の力です。

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デザート

オロブロンコ・トンプソン・イチゴのゼリー
これもさわやかな酸味満載の春のデザートでした。


久しぶりの治作堪能しました。
近いうちにまたきます。


【いもたつLife】

日時:2013年04月01日 08:00

JONA20周年総会

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有機JAS認証をしてもらっている認定機関
日本オーガニック&ナチュラルフーズ協会(JONA)の総会がありました。
今年の総会は20周年の記念総会でした。

JONAは日本の有機認定機関の老舗で、
国際認証も手掛けています。
検査も日本の中ではトップクラスの厳しさですが、
厳しい方がこちらが鍛えられて良いと常々思っています。

日本では有機食品(他にもオーガニックコットンやコスメも含めて)が
まだまだ普及していません。
JONAと我々会員はやることが一杯、
と気を引き締める総会でした。

【いもたつLife】

日時:2013年03月16日 07:45
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