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銀幕倶楽部の落ちこぼれ

キャロル 2015英/米/仏 トッド・ヘインズ

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1950年代のアメリカの良い面も悪い面も十分に表現されています。主演女優二人の目線、表情でそれを感じ取る、そうまさに映画の世界観を受け取る映画でした。

上流階級のマダムのキャロル(ケイト・ブランシェット)と、百貨店の売り子のテレーズ(ルーニー・マーラ)が出会います。互いに惹かれ合いなくてはならない存在になりますが、時代はそんな同性愛を断固として受け入れません。
同性愛者は、夫と離婚調停で娘の親権をもらえないそんな時代、キャロルの境遇です。
テレーズは、自分では物事を決められない性格、そして恋人に結婚を迫られています。そんな時にキャロルと合います。
そんなテレーズは当時のどこにでもいる女性で、でも、自分ができること、やりたいことを本当は貫きたい、キャロルと出合い変わっていきます。

物語は、二人が旅行に出て愛を確かめ合うと、それが仇となってキャロルの離婚調停が不利になることで、一転していきます。
二人は別れることになりますが、でもお互いを慕っていて、そして、自らを成長させます。二人の女性、特に若いテレーズの成長物語でもありました。
テレーズが可愛い女性からの美しく垢抜けていく女性になっていく様は、ルーニーマーラが上手く表現していました。
それと対峙するキャロルのケイト・ブランシェットも素晴らしい演技です。
上流階級の上品な落ち着きがある女性で、テレーズを憧れさせる強さがありながらも、翳りがある女性、時折弱さも垣間見せます。

秀逸なのは、二人がその表情と雰囲気と目線と仕草で、お互いを想う気持ちや、現状の立ち居地での気持ちを表現しているところです。それがまた魅力的に描かれているのは、二人の演技力プラス演出の力です。
味わい尽くしたいと想わせる魅力があります。
そして、再現された1950年代のアメリカの世界観も見所です。

行間を観る映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年03月02日 08:33

はなちゃんのみそ汁 2015日 阿久根智昭

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人生に制約があると、苦しいけれど、その分濃くなるということを示してくれています。
若くして亡くなった千恵さんはもちろん無念でしたでしょうし、遺された夫の信吾さんも娘のはなちゃんも残念きわまりないでしょうけれど、とても濃密な時間を過ごしたことがこの映画で伝わってきました。

この家族の実話を丁寧に映画化された作品でした。
もちろん涙なくしては観られませんでしたが、生きる上で起きていることは一方ではない、辛いことも辛いだけではないことがわかります。
夫婦二人はどれだけ相手に想いを掛けたのでしょうか?あれだけ娘が健やかに成長することを願った母は稀有ですし、娘にもそれは伝わったでしょう。

逃れることができない制約を受け入れた時、人は本当に素晴らしい存在となることと思えました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年01月31日 09:17

ノックは無用 1952米 ロイ・ウォード・ベイカー

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一年ほど前に観ていたのですが、割と忘れているものですね。
でも大枠は解っていますから、細かい部分が見えてきて面白かったです。

例えば、リチャード・ウィドマークがホテルのバーでウィスキー・ソーダを注文するのですが、まず氷を入れソーダをグラスに注ぎ、その後量ったウィスキーをグラスに入れます。そしてバーテンが「混ぜても良いか」と聞きます。どうでも良いことですが、ああいう作り方、接客に仕方なんでと関心です。
また、同じくリチャード・ウィドマークがホテルの部屋で、テッシュペーパーを使うのですが、無造作に大量に使います。
私の記憶では、日本では、1970年代はテッシュペーパーは高級品でした。その20年前にアメリカではテッシュペーパーは今と同じ位置づけだったんだ。
というように細かい部分が楽しめました。

主演のマリリン・モンローは当時、セクシーというよりも可憐なイメージがある美人で、演技も上手くなるなあという雰囲気があります。

話は、恋人を亡くして精神が不安定なマリリン・モンローが騒動を起こすのですが、ハラハラで彼女がどうなるかですが、破綻せずに終わります。ヨーロッパ映画では、違うラストだろうななんてことも考えながら見ました。
そして、そのサイコなモンローを軸に、リチャード・ウィドマークとアン・バンクロフトが寄りを戻すところもハリウッド的だなと感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年01月11日 08:48

FOUJITA 2015日/仏 小栗康平

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映像を通して藤田嗣治(オダギリジョー)の心象風景を察します。そして、戦争とは何か?大きな力(戦争)は、国中の人を巻き込みます。
戦争前のパリと戦中の日本がガラッと違う雰囲気で、あの時代の世界の一部を通して、日本の姿を抑えて語ってもいます。

映画は二部構成です。
第二次大戦前のパリ、藤田はすでに画家として確固たる地位を築いています。
社交界でのドンチャン騒ぎ、派手な藤田です。
一転して戦時中の日本の疎開暮らしは、映像も藤田も地味です。

全くと言っていいほど、状況と藤田の心境の説明がない前半と違い、5番目の妻君代(中谷美紀)との会話で、その両方を垣間見せます。

藤田の作品(絵画)はぼんやりとしか映しません、最後のシャペル・フジタ以外は。それと対比するかのように、全編通しての映像は鮮明で美しい限りです。個人的には疎開先の田舎の風景は、日本人であるから感傷的になります。

パリも日本も綺麗な映像ですが、パリでは作り物の上で燥ぐ藤田、日本では自然の中で物静かでいる藤田、彼の心でしょう。
そして私は、藤田は描くことにとても貪欲だったと思います。5回の結婚、パリで敢えて華やかな舞台に躍り出ること、これらは創作意欲を掻き立てる行為に見えます。
日本で戦争画を描いたのも、戦争に加担したかどうかよりも彼の中では掻き立てられた故のような気がします。

全く異なる二つの生活の中で、作風も全く違う絵を描く藤田を見ていると、大きな力に揺れ動いてしまうのは人そのものであり、社会そのものも動き出したら止められないと気づきます。

私はパリの煌びやかさの対比として日本の戦時の風景を、小栗康平監督は見せたかったのだと思います。
たかだか20年で世界は変わります。赤紙を受け取る寛治郎(加瀬亮)、鉄の供出、戦争画を描いたことで将校になった藤田が軍服を着て表に出ると村人に敬礼されます。でもその藤田が戦後日本を追われることを観客は知っています。
そしてラストのシャペル・フジタは藤田が求めていた心であり、監督の願いだと受け止めました。

自由な解釈ができ、それを委ねられた映画で、また、暗喩にも満ちている映画です。
藤田の心象風景を通して、人々の精神に触れているようにも思えます。それらは美しい映像で表現されています。感じ取れた部分は一部でしかなかったというのが鑑賞後の印象です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年01月04日 00:05

海と毒薬 1986日 熊井啓

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人間の本質に言及しています。
人間はなんと残酷か、そして脆いか、そして良心とは何かを問うてきます。観る者は自分が主人公二人としたら、どんな罪を感じるか、仕方がない状況と誤って成長した社会構造を非難する側に回るか?
鑑賞後の困惑が止まりません。

昭和20年春の九州の大学病院で行われた米兵捕虜の生体解剖が主の映画です。
このクライマックスに至るまでも秀逸で、病院内の力関係の構図と医療ミスの隠蔽工作を描きつつ、また展開は生体解剖の関係者の米軍の尋問からの回想ということになっていることから、登場人物の人となりと当時の様子が掘り下げられ、怖ろしいことに着手してしまう人間像が丁寧に再現されています。

主人公は医学研究生の勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)です。
勝呂は優しい性格から、生体解剖に関わってしまった自分を咎めます。
リアリストである戸田は、己の行動は、戦時であること、軍と院内からの抗えない力で強要されたことだとし、咎めを自分の心から締め出そうとします。

けれど二人とも心の奥では良心が苛まられることにより救いを求めています。

米軍からの断ろうとすれば断れた生体解剖への参加を何故承諾したか?の尋問に、勝呂は「心も体も疲れていて、もう何も考えられなくなっていた、考えてもしょうがない、自分の力ではどうにもならない状況だった」と答えます。
戸田は米軍からのあなたには良心がないのか?の尋問に対して「良心が麻痺しているとは考えたこともない」と答え、多くの人の死と直面することで、人の死や苦しみに無感動になっていたと言います。

なぜもっと己の良心は自分を責めないのか?戸田は考えます。
生体解剖に参加して十分にうろたえている勝呂も同じことを感じます。

人は自己都合で物事を解釈し、自我を守ろうとします。
でも心が痛むとき、心が苦しむ、嫌らしい言い方をすれば自分で心を苦しめることで、良心を責める結果として自我を救い立て直すのです。

自ら行ってしまったことがどんなに非道で残酷なことでも、行為後の心の動きは同じです。どこまでも自我が破壊されないようにするのが人の本能です。

二人はずっと苦しむことも間違いありません。
生体解剖に携わったのは自らの選択であった事実も認識しています。それは誤魔化せないからです。
でも自分を守るのが人間の本質です。

勝呂と戸田の行動とその動機と、その後の心の動きは、私たちの日常と同じです。
異常な状況だけが違う点です。
そして、その異常な状況は、人が良かれとして構築した社会構造が、そのシステムが人の行き過ぎる欲望でその機能を果たせなくなって行き着いたものです。

人が作った状況で起こす人の行動は繰り返しますが私たちの日常です。
だから今、自分が生きている場も大して異状ではない異状だと思えてきます。

戸田は尋問でこんなことを言います。
「僕にとって良心の呵責とは、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけです。偶然の結果かも知れませんが、僕がやったことはいつも、罰を受けることはなく、社会の非難を浴びることもありませんでしたよ」
私の今を語っています。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年01月03日 10:16

たそがれ酒場 1955日 内田吐夢

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さすが内田吐夢監督、という秀作です。

戦後復興中の東京にある酒場、酒場といっても、飯も出すし、中二階には舞台もある。そこでは演歌、民謡、歌謡曲からクラッシックまでの場末の店には不似合いなほどの本格的な演奏があり、クライマックスではストリップショーがある、にぎやかな店です。
この酒場からカメラは出ることはない、一晩の群像劇です。

もちろん悲喜こもごもの人間模様です。

エピソードも役者も多く、でも散漫にはならず、ユーモアも交えた抜群の匙加減の演出です。
役者陣もそれに応える芸達者ぶり。面白かったです。

偶然出くわした戦時の上官と部下(東野英治郎・加東大介)、あの頃を懐かしみ、今を憂います。
それとは正反対に明日を夢見る若者達。
また、議論を交わす学生達。
店のアイドルユキ(野添ひとみ)を巡って仲違いするヤクザ者達(丹波哲郎・宇津井健 他)。
愛人問題で揉める夫婦。
客のおこぼれを拾うコバンザメ(多々良純)等々の雑多の中でメインの物語が進みます。

店の常連で先生と呼ばれているパチプロの梅野(小杉勇)が物語のリード役、
店にはプロ並みの歌手健一(宮原卓也)とその先生の江藤(小野比呂志)がいますが、江藤は一流の音楽家だったのが、なにか事件があって身を潜めなければならない様子で、今は才能ある健一を育てるのが生き甲斐です。

その晩、日本有数の歌劇団の親方の中小路(高田稔)が客として来たことを梅野は見逃しません。クラッシックをリクエストして、健一が中小路の目に留まるようにします。作戦成功で歌劇団に誘われる健一ですが、それを許さない江藤、何故なら江藤が身を潜める原因になったのが中小路だったからです。

クラッシックバレエを諦めなければならなかったダンサーのエミー(津島恵子)は健一まで埋もれてしまうことに我慢ができません。
そして、全てを知っている梅野の説得で江藤は健一を送り出すことにして幕です。

それ以外にも、エミーと昔の男の逆恨みでの騒動や、宇津井健と駆け落ちするユキが、家族を想って諦めるエピソードがあります。
ユキは戦争で父親を失い、母と妹を一人で面倒見ていますが、一杯一杯の生活、そこへ母が倒れたことから月給の前借を頼むのですが、店には断られ、梅野が肩代わりすることになります。梅野が店から借りるのですが、返済期限は今晩の店仕舞いまで、どうして返済するかと気が気でないところ、梅野の過去を知る新聞記者が登場、彼の似顔絵を描いてユキのひと月分の給料を稼ぎます。
梅野は、戦時高揚のための絵を描いていた有名な画家で、多くの若者を戦地に送った片棒を担いだことで筆が握られなくなったのでした。

まだ戦争の傷痕が残る時代、でも活気に溢れている時代、その中にいる様々な人たちを映します。
心が癒されていない者、貧しさから抜け出せない者、昔が自分にとっての栄光だった者、希望を持つ若者、ドロップアウトする若者、次の世代の橋渡しをする人達。
一晩の一室で、社会には老若男女がいていつも交錯していて、また、時は確実に流れ、人は次世代に次への時代を託すものというメッセージを感じます。
見事に纏め上げられていました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2016年01月02日 10:25

真夜中のゆりかご 2014丁 スサンネ・ビア

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人はここを攻められたら、落ちてしまうボタンがあるのです。

何があっても決して取り乱れることがない、倫理的な主人公、刑事のアンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)は妻アナ(マリア・ボネヴィー)との間にアレクサンダーという生まれたばかりの赤ん坊がいます。ますます幸せになっていく家族です。

ある時、アンドレアスと相棒のシモン(ウルリク・トムセン)は、通報によりアパートの一室に入ると、前科者のトリスタン(ニコライ・リー・コス)に虐待される情婦サネ(リッケ・マイ・アナスン)とともに、糞尿まみれの赤ん坊ソーフスを見つけます。

ある夜、あろうことかアレクサンダーが眠っている間に亡くなってしまいます。半狂乱になるアナ。
アナはわが子の死を受け入れることを拒否します。アレクサンダーを私から取り上げたら自殺する。本当にやりかねないアナを、なんとか眠らせたアンドレアス、シモンに助けを求めますが、シモンは飲みつぶれていました。
夜中に死んでしまったアレクサンダーと彷徨うアンドレアスに悪魔が囁いたのか、
アナに赤ん坊を授けることをします。なんと、アレクサンダーとソーフスを交換してしまうのです。

アナは代わりの子が出来て落ち着いたかに見えましたが、情緒は安定せず、投身自殺してしまいます。結局、妻も子も失ったアンドレアスは失意の底です。
それと並行して、トリスタンは、ソーフスは死んだと思い込み、このままでは殺人罪に問われると遺体遺棄し、誘拐されたと狂言します。
警察に尋問されるトリスタンとサネ。
サネは一環して遺体はソーフスではない。ソーフスはどこかにいると主張します。

アレクサンダーが亡くなってから、俄然サスペンスとしての面白さ、先が読めない展開になります。
そして、虐待していたのは実は?という大ドンデン返しもあり、上質サスペンスです。

落ち着くところに落ち着くのですが、母が子を失う喪失に勝る喪失はないことを、サネで改めて痛感します。

そして、あれほど何事にも冷静に判断、対処、行動できるアンドレアスが、妻まで失いそうになると、一転、信じられない判断、行動を起こすのです。
そのやってはいけないことと解りつつやってしまう行動に、人は屁理屈をこね回します。
「あの夫婦からソーフスを救うことになる」「は、このままでは虐待されて殺されてしまう」
彼はアナがすべてだったのです。

倫理とは、法とは、愛とは、そして感情のコントロールってどこまでやれているのか、それらを考えてしまう内容でした。

冒頭、相棒のシモンは、女房子供に捨てられて、飲んだくれ、という男でしたが、最後は名探偵ぶりを発揮。これも良かったです。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2015年11月16日 08:56

Mommy/マミー 2014加 グザヴィエ・ドラン

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制約があることで、愛がこんなにも激しくなるのか、
迫力あるやりとりが、そのまま、母の愛のすさまじさ、それを受け止める子も、自分がどうしようもないことを知っているから、必死で受け止めようとします。

シングルマザーのダイアン(アンヌ・ドルヴァル)は、多動性障害のスティーヴ(アントワーヌ・オリヴィエ・ピラン)と二人暮らしです。
スティーヴは施設に預けることもできるのですが、かなし閉鎖されたところでしょう。人らしく生きるには自分で育てるしかない。でも、いつどこでキレてしまうスティーヴを抱えて気が気でありません。
そして、スティーヴが原因で職も失ってしまいます。
そんな二人は隣人の高校教師のカイラ(スザンヌ・クレマン)と仲良くなります。彼女は、過去の出来事とストレスで引きこもりぎみで吃音になっていましたが、スティーヴの家庭教師を買って出て、二人と触れ合ううちに3人が良い方に向っていたのですが・・・。

ダイアンはスティーヴの将来が心配でなりません。母として当然です。そして、スティーヴは絶対に立ち直れると信じていますし、それには自分が必要だという自負もあります。
一見ダイアンも情緒不安定で暴力的にも見えますが、あれほどの強さがなければ、スティーヴを抱えて、一人で独り立ちさせるなんて出来ないのでしょう。
その母の愛が痛いほどわかるスティーヴですが、スイッチが入ると自制がきかず暴れてしまい、母を苦しめてしまうことを心底後悔しています。
でもやっぱり自制できない。

カイラはそんな二人に対して献身します。でも、やっぱり社会には適応できないスティーヴだし、社会がスティーヴの存在を許さないのです。

ダイアンは希望を棄てない、とラスト、カイラとの別れの前に言います。
私はへこたれないダイアンの姿を見て、希望を与えられていました。

追伸
この映画、そのほとんどが正方形の画面です。
人ひとりがアップになるシーンも多く、ダイアンが、スティーヴの叫びが、心の叫びとしてこちらに鋭く指す、そんな映像作りでした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2015年11月10日 07:30

胸騒ぎの恋人 2010加 グザヴィエ・ドラン

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ちょっと奇妙な三角関係の恋の行方を追うのですが、
それに奥行きをつける演出があり、観客のイメージを膨らませます。

同性愛の男性フランシス(グザヴィエ・ドラン)と同性愛者ではない女性マリー(モニア・ショクリ)は、仲良しの友人です。ある時一人の男性ニコラ(ニールス・シュナイダー)を同時に一目ぼれします。

二人ともさりげなくニコラに近づき、ニコラもマリーはもちろんフランシスにも満更ではないのですが、煮え切らない感じ。二人以外の女性とも付き合っているようなのですが、フランシスにもマリーにも気軽に声を掛けます。
映像は仲がよい三人が中心です。

まず、人物造形が良いです。
天然掛かっていて、ハンサムで優しいし裕福なニコラなので、二人とも惹かれるのは当然という感じ。
そしてフランシスも魅力ある同性愛者で、ニコラにもマリーにも気を配ります。
マリーは美人ですが、ちょっと不器用な感じで、そこがまた三角関係を面白くします。
そしてニコラの本意が見えてこないので、二人の中にある感情に共感し、どちらか、もしくは二人を応援したくなります。

物語の本筋とは別に、登場人物に近いような男女のインタビューが挿入されます。テーマはそろって失恋で、この演出も含めて、観るものの中にある恋心が刺激される造りです。

ラストは、二人がちょっと引いてニコラと接すると、
という終わり方ですが、思わせぶりにもなっています。

この手の映画を観るには私自身、登場人物にしっかりと近づけなくなっているということも痛感し、そういう意味では悔しいけれど、だからこそ、彼らの感情を探りたくもなりました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2015年09月19日 08:49

マイ・マザー 2009加 グザヴィエ・ドラン

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親離れの真実の映像を見せられたというのが感想です。

主人公は高校生のユベール(グザヴィエ・ドラン)、女手一つで育てている母(アンヌ・ドルヴァル)とは毎日口論です。反抗期で母親のやる事成すことが気に入りません。
その反抗に真っ向から立ちふさがるタイプの母親だから、収拾が付かない毎日です。
しかも母の論理は感情で正当なので、ユベールはうんざりしています。

ユベールの心の支えは恋人の同級生のアンナトン、同性愛で、このことも母にわかり、この問題でも一悶着です。
アンナトンも母子家庭ですが、ユベールと母との関係と反対で、母息子関係も性のことも上手く行っています。

ユベールはハイティーン独特の時期で、世の中がわかってきたあたりで持つ狂気を母に向けて振るってしまうのです。
母子家庭なので母は父親役もやっていて、だから余計にユベールは母と諍いになってしまいます。

でもまだ10代です。母に愛されたい弱さも持っています。そして、母を愛したいも湧き上がって来るのです。
そのあたりの描写が見事で完成度も高く、10代でこの映画を作った監督グザヴィエ・ドランの才能に驚きますが、若くなければ撮れない映画でもあることも間違いありません。

そして親離れを経験し、ユベールは成長していくことを匂わせます。

余韻もあり、映像も感覚に迫るのだけれども、それも計算されているという作品でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2015年09月18日 08:57