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ブログ 今日のいもたつ

2013年12月

メランコリア 2011丁/瑞/仏/独 ラース・フォン・トリアー

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今年も干し芋(お米)だけでなく、
映画や演劇や落語の自分勝手な感想をつらつらと書かせてもらいました。
大晦日も映画の感想です。
この映画は地球最後の日ですが、精神的には最後ではないという映画だと解釈しています。
皆様良いお年をお迎えください。
今年も干し芋のタツマをごひいきくださり本当にありがとうございました。

最期を迎える覚悟を問われました。

ラース・フォン・トリアー監督が描く地球最期の日ですから、
尋常ではありません。
哲学的な表現と、自己の鬱を表現しています。
このあたりは、観客が持つ造詣により受け止め方はそれぞれです。

映画は二部構成です。
第一部「ジャスティン」は、主人公のジャスティンの披露宴です。
延々と、憂鬱なジャスティンと、異常になっていく宴を描きます。
第二部「クレア」は、ジャスティンと姉のクレアと夫、一人息子が、
滅亡を迎える様ですが、ジャスティンとクレアの精神的な立場が逆転するところが味噌です。

クレアとその夫は社会的に「正常」とされている象徴。
ジャスティンは「異常」とされている象徴です。
その両者の最期の迎え方に焦点を当てていて、
己の死生観を鑑みることになります。

同時に人の価値とは?
ということも否応なく考えさせられてしまいます。
所詮、“狭い視野で自分勝手にああだこうだ言ってるだけ”の自分を観ることになります。
そんなことは頭ではわかっているだけ、
ということをハンマーで殴られて正気にさせられているようでした。

以上が感想です。
以下は、映画的に素晴らしいと思ったところです。

地球最期の日を語ることに対して、贅肉を削ぎ落としたという感じの演出です。
そして、日常では知ろうともしない、「異常」で片付けてしまうジャスティンの内面を、
美しく観念的な映像で誘います。
また、良い意味でラース・フォン・トリアーらしい嫌らしい悪意すら感じる、
第一部の光景と、それを逆転させる第二部で、その嫌らしさを回収して、
(私が解釈した)テーマを突きつけるやり方、
さすがラース・フォン・トリアーと思いました。

この映画ももっと深く読み取れると自負ができてもう一度観たい作品です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月31日 09:37

ペコロスの母に会いに行く 2013日 森崎東

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高齢の認知症の母親と息子とが織り成すほんのり喜劇です。
母の子供の時代の終戦前後、
息子を生んでからの苦労した時代が挟まれていて、
家族の歴史を振り返ります。

原作者は息子さんで、その実話がベースの映画化です。
母の人生で大事な人達が紹介されていて、
息子が母の人生に拍手を贈っています。

誰もが体験している日常が写るだけ、
特別なドラマがあるわけではありませんが、丁寧な描写は、
感動になります。やっぱり人の一生は尊いと思わずにはいられません。

もう母と別れてしまった人達、
お互いが高齢でもう別れが近い人達、
母は人生を振り返りそれらの人達との思い出を空想しますが、
それは自分と関わった人達も肯定しています。

また、認知症が進み、息子は自分が忘れられてしまっていることを嘆きます。
でも、それをも受け入れるのですが、
きっとそれすら人生の一部として腑に落ちたからでしょう。
きっと忘れてしまっていることなんて二人の関係のちっぽけな出来事でしかないと、
それが親子の関係で、美しい姿です。

高齢化、認知症、ごく身近な悲劇になりそうな題材を喜劇として扱うのは、
人の可能性の示唆です。
誰もが老います。それに対して勇気を与えてくれる映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月30日 08:02

年内大詰め

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お正月用にということで、頼まれている干し芋の
収穫、出荷作業で大忙しなのが毎年の干し芋農家です。
今年もいよいよ大詰めです。

【芋日記】

日時:2013年12月29日 07:48

ほし黄金ほしいもです

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玉豊とクイックスイートで品種改良された『ほし黄金』は、
昨年苗がほんのわずか出回っただけなので、
蒸かしているのを観るのは初めてです。

自社の有機農園でも作付けして種芋と取り、
蒸かし用も少しありますが、
まだ蒸かしていません。

簾(すだれ)に並べた印象は、玉豊に似ていながらも、
(甘さとやわらかさ)
形状の良さから玉豊よりも素性の良さを感じます。
作業性も良さそうです。
収穫量や保存性がまだわからないので、それらの検証が進むと、
『ほし黄金』のこれからの行方が決まってきます。

【芋日記】

日時:2013年12月28日 07:40

厚切りと薄切り

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本格的な寒さにならないと作れない厚切り干し芋をつくりはじめました。
紅はるかの厚切りです。
紅はるかの厚切りは初の試みです。
同じく、薄切りも試しています。
薄切り自体も初めて、紅はるか薄切りも初めてです。

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【芋日記】

日時:2013年12月27日 08:12

ぎんさんのいずみと紅はるか

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今年流行りの紅はるかを、ぎんさんも栽培しました。
いずみよりも紅はるかは明るい黄色ですが、
乾いてくると、色合いが似てきます。
微妙に色が違うのと、形で見分けます。
解らない時は味見です。

【芋日記】

日時:2013年12月26日 07:41

忠八さんの原料芋

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毎年タツマのために玉乙女を作ってくれる忠八さんですが、
今シーズンは春に玉乙女の種芋が傷んでいたので、
不足分は、紅はるかの苗を作り作付けしました。
ですから、紅はるかと玉乙女を交互に加工しています。

【芋日記】

日時:2013年12月25日 07:17

ホーリー・モーターズ 2012仏/独 レオス・カラックス

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レオス・カラックスの人生観と、映画に対する想いが詰まった映画です。
冒頭、レオス・カラックスに映画の中の映画に誘われます。

レオス・カラックスの分身のドニ・ラヴァン(役名はオスカー)がリムジンの中で、
次々と異なる人に成りきって、(それぞれに依頼者がいて望まれた人物に成りきる)
クルマから降りるとその日その人が起こすドラマを演じます。
様々な人々の人生の一ページで、それはレオス・カラックスの人生観でしょう。

ラスト近くでオスカーが演じていたのは一人の人物が望んだ姿だけではなく、
そのシーンにいた重要な人物もオスカーのように依頼されて導かれたのだということがわかってきます。
ラストでそれが明らかになり、その日の演目が終わったことも明らかになります。

レオス・カラックスの人生観と彼の家族に対する愛と映画へのオマージュが、
入れ子構造になっていて、意味深さを消化しきれないことも多かったのですが、
意図(私が解釈した)はひしひしと感じます。
そして、神への畏敬も秘めていることも。
真摯な生き方を説いているとも感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月24日 07:36

【SPAC演劇】忠臣蔵 作 平田オリザ 演出 宮城聰

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太平の時代に『武士道』を貫いた赤穂浪士、忠義を尽くし主君の仇を討つその舞台裏を、独特の解釈で描いたこの忠臣蔵は、牙を失った武士でも大儀を成していけることを示唆しています。
それは同時に、平和ボケ、飢えも知らず、国に頼ることを恥じない風潮、都合が良い生き方が許される社会、そんな現代人でも大事を成せることへの希望が込められていました。
ただ、劇全体を包む喜劇性は大事にたどり着くことは容易ではないことも感じさせています。

劇は家老の大石内蔵助と6名の宮仕えの侍達による、藩と自分達の今後の身の振り方を決める場面が主です。浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内で切り付けたことで即日切腹、吉良はお咎めなしの報を受けた直後です。
篭城か、開城か、おとなしく他への仕官を求めるか、忠義を尽くして切腹か、はたまた吉良を討ち取るか、喧々諤々です。
喧々諤々の中身が洒落ています。保身と打算に感情論、日和見に、思いつき、そんな卑しくも正直な気持ちの大前提を踏まえての議論は、「幕府の理不尽な裁定と、それに対する抑えがたい武士道精神」という構図は微塵もありません。
そして主君の死さえもひとつの出来事として相対的に捉えて、淡々とクールに自分達の今後を面白おかしく憂う姿は、傍からの印象であって、当事者達は真剣そのものの本音です。
主君の無念を晴らす仇討ちは確かに大事で、もちろんやり遂げたい、でもその大儀で自分はどうなる、家族はどうなる、そもそもそんなことが現実的か。
ならば無慈悲な幕府の言いなりになるのか。篭城で自らの身を守りつつ憂さを晴らすのか。それも嫌だし、それを認める自分を許せない。
そんな本音が無自覚でも確固たる意志として議論されます。それを現代的な演出にして上質な喜劇に仕上げています。

「関が原から100年経った今、我々は武士道はなんなのか見失っている」という台詞があります。『武士道』を背負っているのが武士だという幻影が、武士とはこうでなければならないという価値観を無視できない状況を作り、それに縛られた姿を見せています。
巷の忠臣蔵ではこういった気概の浪士達を賞賛しています。それも人が持つ普遍性であるから、忠臣蔵が今も皆が求める物語足りえるのですが、赤穂浪士全員が足並みそろえて討ち入りに向かっていったということはありえません。この仇討ちが美化されているとまでは言いませんが、案外この忠臣蔵の侍達のやりとりのようなことから討ち入りが出発していたとしても不思議ではありません。
赤穂浪士の行為の聡明さや一途な精神はこの事件後の後付の評価です。事件から300年、多くの見解があります。平田オリザさんや宮城聰さんも自分の思惑として(強調しているとしても)、こんな顛末があっても良いと考えての演出には私も共感します。
ただ「こんな顛末があっても良い」の奥には、侍達が真摯に藩に向き合っていることが絶対条件です。それは真面目な仕事ぶりと、結果的には可笑しくなるけれど真面目な会話で表現されていました。そして、飄々とした内蔵助の中に実は武士道精神が潜んでいるからこそ忠義が実現したということも、この劇で触れているというのが私の解釈です。(これは劇中の内蔵助の遊びの衣装での振舞いと最後の釣りのシーンからです)

この忠臣蔵は、討ち入りを決めるまでの議論を見せています。
吉良を討ち取ることが侍達の総意であり、固い意志であり、だから成しえたという物語とは全く違った、そんな想いとはかけ離れた遠いところで討ち入りが決まっていったという喜劇です。
だから、この劇の後日談として吉良が討ち取れたと仮定すると、侍達は最初は出来るかどうかは半信半疑で、仕方なしに内蔵助について行ったら事を成しえたということになります。
しかもその時の四十七士はエリートばかりではありません。なにしろ劇中の議論で決まったことは、「他の大名に仕官したら無理に討ち入りに参加しなくても良いよ」という内容で、これだと優秀な者ほど抜けていきます。でも行き場がなくなった必死の者が残るというのがメリットともいえます。(劇中に仇討ちを成功させて、助命を受ければ士官の先は引く手数多というシーンがあります)それにしても現実的ではありません。
でも大儀が適います。
その、“結果成しえてしまった”という所が、この忠臣蔵が、牙を抜かれた闘争心に欠けてしまった現代人にも、大儀を成すことができるという賛歌だと思うのです。
もちろん相応の努力が前提になりますが、揺るぎない決意がなければ出来ないのではなく、外堀を埋めるかのように粛々と環境を整えることで、いつのまにか出来ていたというのが私達が事を成せる本来なのです。

でも繰り返しますが、勤勉であること、力を蓄えていることが前提です。
この忠臣蔵においても結果大儀を成し遂げたとしたら、偶然に任せたとはいえ、容易ではない事です。
ここには、喜劇仕立てにして敢えてそれを匂わせないけれど、どんな世でも「自らが欲することは、自らが備えていた分だけが適う」ということと捉えました。
そう捉えるのは私の心の癖かもしれませんが、この演劇も真実を語っていたと強く感じますからあながち外れてはいないと信じています。

【いもたつLife】

日時:2013年12月23日 07:19

炎628 1985ソ連 エレム・クリモフ

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1943年白ロシア(現ベラルーシ)は、ドイツ軍に侵攻されます。
それを迎え撃つパルチザンに15歳位の少年が兵として志願します。
映画はこの少年兵の目線で進みます。
あくまでソ連目線ですが、戦争がもたらす真実を映像で再現しています。

少年は自軍が壊滅すると、村に戻ります。
家族は少年が志願したことを理由に惨殺されていました。
この時少年の目には、殺されている双子の妹は、倒れた人形として写ります。
この映画では少年が見たくないものを見た(聞いた)時に脳が勝手に映像と音を、すり替えてしまう表現を使っています。これにより観客は少年の体験に寄り添うことになります。

狂いそうで狂えない少年の第一の試練ですが、
ここで留まることがないのがこの映画です。
その後、村人のために食料を奪いに行く途中に仲間だけ殺されること、
そしてクライマックスでは、少年を匿ってくれた村そのものが、
村人とともに焼かれる体験もします。
少年は奇跡的に生還しますが、終始幾度も生死の境目に漂うしかなかった少年は、
老人のような皴ができていました。

ソ連映画ですからナチスドイツが祖国にやった仕打ちを描きます。
第三者から見てもその行為は目を覆うばかりです。
怖くなったのは反戦映画ではあるのですが、
ロシア(ソ連)の人達がこの映画を観たらドイツ人を許せなくなりそうなほどの映像だったことです。
欧州はそれを乗り越えてEUを進めていますから杞憂でしょうけれど。

この映画は人の狂気を赤裸々にしています。
平気でどころか、狂喜しながら村人を焼き討ちにするドイツ兵達、
略奪、強姦、暴力、弱いものをいたぶります。
狂喜に逃げるかのようです。

しかし、それを受ける側は正気ではいられません。
少年の精神が病んでいくのが、
姿からと、少年の気持ちになるような演出から体感してしまうことで想像できるのですが、
“実はこんなもんじゃない”ということも同時に大きく心に訴えてきます。

戦争は一瞬にしてこれまでの人生を無意味にするかのように、人々を絶望に落とします。
根も葉もない子供(幼児)は生まれたことに意味などなかったかのごとく無残に残酷な仕打ちを受けます。
オセロの白と黒が変わるように、一瞬です。
そしてそれはドイツ兵も同じです。

ラスト村を焼き払ったドイツ軍は、パルチザンの逆襲に遭います。
将校達は捉えられます。
一番の親玉の大佐は命乞いをします。
それを潔しとしない青年将校は、銃を向けられながらも、主張します。
「共産主義は下等だ。だから根絶やしにされるのだ」
「子供から全てがはじまりになる。生かしておけない」
「貴様らの民族には未来はない」

戦争の始まりは積もり積もった多くの要因ですが、
それを遂行するために論理があとから付け足されます。
そして正当化されてしまいます。
戦争により、人の悪が育ってしまうことをこの映画でも痛いほど確認できてしまいます。

追伸
12/22は「冬至」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「冬至」の直接ページはこちら
冬至

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月22日 06:10