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2015年05月

【SPAC演劇】盲点たち ダニエル・ジャンヌトー演出 モーリス・メーテルリンク作(「群盲」より)

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目が不自由な12人の男女が、森の中に取り残されたという設定です。
ある島の施設からハイキングで森にやってきました。もちろん施設の先生の先導でですが、何故か先生はいなくなり、戻ってきません。
段々と不安になる12人、そして先生は死んでいたことがわかります。

この演劇は、野外をそのままセットそして使うようですが、当日は雨天なので、室内バージョンでした。
室内にはアットランダムに椅子が並べられていて、客席も舞台です。
スモークが炊かれて薄暗く視界は1mくらいです。
その中で多分12人の役者が散り散りになっていて、遠くからまたは近くから、声が聞こえてきます。
森の中で散り散りになっているからです。
不安を抑えきれず喚く男、冷静に先生を待とうという女、こうなったのはあなた(一人の特定して人物)の責任と責める女、恐怖で動けなくなる男、念仏を唱える女。
皆の不安は高まるばかりです。

突然に死の恐怖に晒された人間の嘆きの感情が伝わってきます。
私達は目が不自由ではないし、今では誰も携帯電話を持っているから大丈夫というのは気休めでしかありません。
生身の人間なんて脆いものです。
都市を作りその中でしか生きられないのが人間です。
自然に身をさらせば、ものの2日もあれば死が待っています。
もちろんそんな状況に追い込まれるのは、事故や災害時ですが、
都市の中でしか生きられないということは事実なのです。

あの叫び声は他人事ではありません。

【いもたつLife】

日時:2015年05月11日 08:35

【SPAC演劇】小町風伝 イ・ユンテク演出 太田省吾作

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SPACの劇場の中でも、贅沢な空間の楕円堂での公演、しかも当日は、亡き太田省吾さんの奥様と、1977年にこの演劇を初演した際の役者さんたち数名も観劇という、緊張感溢れる中で開催された「小町風伝」は、個人的にはとても感動した演劇となりました。

小町は既に老婆になっています。失禁までしてしまう程、かつての美しさはありません。もう余命もいくばくもない様子、そんな彼女はかつての絶世の美しさの姿のままの自分を妄想しながら生きています。
ですから舞台上は、老婆の小町と絶世の美女である小町の二人が、対になっています。

老婆の妄想は、愛し愛された少尉との逢瀬。でもその少尉が戦地に去っていく場までも現れてしまいます。
当然ですが、老婆は妄想の中だけで生きていくわけにはいきません。
現実には大家が様子を見にきますし、隣家の生活も目に入ります。嫌でも現実に引き戻されてしまうのですが、その現実を交えて妄想の世界にまた入り込みます。

隣家の息子の若い青年がかつての恋人に重なり、若い自分との逢瀬がはじまります。でもこの時は、かつての恋人が老いて、今の老婆の自分に体を重ねてきます。
今の自分の姿を完全に切り離して妄想することもできません。

それは食べなければならないシーンにも現れます。老婆はインスタントラーメンを煮炊きして食べます。妄想の中ではレストランで、少尉とロシアンスープを飲みワインを呷りますが、それで空腹を抑えることはできないからです。

また、このシーンはとても楽しいシーンですが、町内で運動会が開催されます。
どちらというと、老婆を煙たがる大家も、老婆を看取らなければならない医者と看護婦も運動会に参加します。皆、老婆とともに嬉々としています。
これも半分は現実で半分は妄想です。老婆の耳に聞こえてくる現実社会を、老婆にとって不都合がない世界へと美化しています。

人は死で終えます。それは辛いことです。しかも年老いていった末、体が不自由になり、醜くもなり、場合によっては頭も働かなくなるという、老婆でなくても顔を背けたくなる現実の末路で死に至ります。
それは確かに死の直前の己ですが、その己の姿だけが人生の全てではありません。過去も確かに己だったのです。記憶というのは自分勝手な都合が良い空想である場合もありますが、その源は確固たる過去の自分です。

死を迎える今に当たって、こんな妄想をする老婆(役目は駒子です)は愛らしい存在です。そしてこれはあの世へ渡る彼女なりの儀式でしょう。
最後に老婆は襤褸から身支度を整えて、表札をはずして舞台とは違う世界(この時は、日本平の森に出て行くという演出でした)に旅立ちます。

私が死を迎えるその時に直面した時、果たして私は、どんな自分なりの儀式をするのでしょうか?それを深く考える劇でした。

“沈黙劇”として上演される「小町風伝」を、大胆に解釈し、敢えて言葉を繋いだのが、「イ・ユンテク演出の小町風伝」でした。
老婆、絶世の美女の小町ともう一人の女性の語り手の3人が、ト書きも含めたこの戯曲の沈黙部分を語ります。
老婆は今と妄想時の心情を、美女の小町は若き日に愛するものに伝えた言葉を、語り手は現実の老婆の想いを、役割分担して沈黙部分の全てを露にします。
3人共に実は彼女自身で、今の目の前の老婆の姿だけが彼女ではないということを強く感じました。

この演出はとても大胆ですし、役者達も躍動感ありながら繊細でかつ大胆な演技でした。
解釈に賛否はあるでしょうけれど、私には絶賛したい演劇でした。

【いもたつLife】

日時:2015年05月10日 07:31

【SPAC演劇】ベイルートでゴドーを待ちながら

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作・演出 イサーム・ブーハーレド ファーディー・アビーサムラー

二人芝居で、漫才のようで、落語「粗忽長屋」を思い起こすネタがあり、
上質な喜劇ですが、奥には演出家二人の死生観があります。
それは日本人には理解できない、レバノンでできた芝居ならではのものです。

天井からのスポットライトで、一人の役者が暗闇から浮かび上がります。
丸く明るくなった中で、右手で高々とVサインをしています。
そこにもう一人の役者が、その場所を奪おうとします。もう一人も、浮かび上がった円の中でVサインをしたいからです。

最初は明らかにスポットライトの円と、それ以外は暗闇という境界線があるのですが、
演劇が進んでいくと、境界線がなくなっていきます。

次に展開されるのは、<あいだ>です。
二人は二人だけで、二人との間に自分がいると言い出します。
最低3人いなければ、<あいだ>に入ることは出来ないというのが常識なのに。
そこからも二人は、いがみ合っているのか、仲が良いのか、わからない喜劇を演じます。
そして終には、一人の男は、死と生のどちらにいるのかが解らなくなります。

私達が引いている境界線はこの演劇には通じません。
日本での生と死と、ベイルート(レバノン)での、生と死は全く異なり、
常に足を一歩踏み入れているようなのです。
そんな状況を高々と笑いにしてしまうという、心が痛む演劇でした。

【いもたつLife】

日時:2015年05月09日 08:34

【SPAC演劇】観~すべてのものに捧げるおどり~ 芸術総監督・振付 林麗珍

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自然と人との係わりが、自然の中での人の営が印象になる演劇です。

客席は暗く、舞台は蝋燭の炎だけの明るさから、時に幻想的なライトも交えた中、
演者達は、無言のスローモーな動作から、銅鑼の重厚なベース音と打楽器の激しい音色の中での時に俊敏、時に力強い踊りを披露します。

自然の畏敬に対しての人間が抱く感情の表現や、単に大いなる存在への感謝の儀式にも映り、厳しい自然そのものにも映り、人との別れのようにも映ります。

訓練された身体が無ければできない、タフな2時間ですが、そんなことへは思考は行かない舞台です。
地球は何十億もかけて時間が流れ、そこには人の存在など、ただあるだけ。でも人は一人一人地球の上で確かに生きて、そして死んでいく、それを地球上で連綿と繰り返している。そんな生命の根源が表現されているようにも感じます。

そして、演劇が進むに連れて段々と、母性に抱かれている感覚になりました。
幽玄な世界が繰り広げられた演劇でした。

追伸
5/6は「立夏」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「立夏」の直接ページはこちら
立夏

【いもたつLife】

日時:2015年05月08日 08:40

【SPAC演劇】ふたりの女 宮城聰演出 唐十郎作

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主人公の光一が、自分が作った自分を囲う檻を壊し、解き放つことができたのが、「ふたりの女」で、誰もが気づかずに自分を縛ってしまっている呪縛があることを暗示させます。

精神病院の医者である光一には、妊娠している婚約者アオイがいます。光一が海辺で、砂浜にラブレターを書きながらアオイへの想いを吐露するところから劇は始まります。
病院には、六条というアオイにそっくりな患者がいます。
六条は何故か光一を愛しています。光一も六条のことが気にかかります。そして、六条から鍵を受け取ります。その鍵は、六条が退院した折に光一が迎えに来るサンドバギーの鍵だと六条は言います。

場面は変わり富士スピードウェイで、光一とアオイは観戦しています。光一はツワリで気分が悪いアオイのために夏みかんを、弟に取りに行かせます。そこで弟は六条とのクルマのトラブルに巻き込まれます。そこに光一が現れて六条と再会、六条は今、化粧品のセールスをしていると言い、東京で仕事をしたいからアパートを探して欲しいと光一に依頼します。光一は不動産屋の紹介くらいなら出来ると渋々請け負い、そのお礼に六条は化粧品を光一に渡します。

アオイは、光一から化粧品を受け取るとそれを使うのですが、それは化粧品ではなく髪油でした。それを付けると匂いが強く取れないとアオイは言いながら、何故か段々と六条のようになったり、アオイに戻ったりします。
アオイの時のアオイは、髪油を誰から受け取ったかを、また、サンドバギーの鍵まで見つけて光一を詰問します。

次の場面は六条のアパートです。光一は眠っているアオイから取り上げた鍵を返しに来ました。そこに不動産屋が現れます。彼はアオイを玄関まで連れてきて、アオイは二人の会話を立ち聞きしていたと言います。慌てた光一がアオイを探すとアオイは崖の上にいます。
アオイは光一を罵りながら身を投げてしまいます。

最後は精神病院です。光一は院長に自分を六条がいた6号室に入れてくれと頼みます。しかしそれは叶いません。すると光一は海辺に出て、亡きアオイに向けての想いを吐露しながら砂にラブレターを書きます。
すると六条が現れます。光一は六条に、なぜアオイと仲違いさせるようなことをしたのかと詰問します。そして、終には六条を絞め殺してしまいます。

私は光一はずっと6号室の患者であったと解釈しました。だから六条は光一が作った幻影です。アオイが亡くなったのは自分に責任があり、それを責める存在として六条が生まれたのではないかと考えました。

この劇では他にも幻影を作り出す人物が登場します。
富士スピードウェイの駐車場係は、居るはずがない酔っ払いの老人を抱えて歩きます。また、彼は自分の中に潜む負の感情を常に外に向けて放っています。そして、彼の兄は入院患者で、自分が犯した罪を償うために指を切り落とすしかない、けれど指は10本しかないことを悩み、11本目の指を探しています。
これらは光一が抱いてしまった強迫観念を他の登場人物も持っているということです。

光一はアオイに赦されたいために六条を作り、六条と対話します。そして六条が自分の目の前から消えた時、光一はアオイを亡くした現実と向き合えるようになったのです。自責の念は消えたわけではありませんが、檻を作りその中でしか生きてはいけないと言い聞かせた自分を、その檻から出ても良いと決着を付けたのが最後のシーンだと思います。

舞台は野外で、舞台の先には天然林があります。
格子状に砂が盛られた観客目線のセットと、その上に廃木の柱が組まれた目線よりも高いセット、そして、天然林を活用した奥深く天に近いことをイメージさせる部分も使われていました。
登場人物が目線のセットと、それよりも高いセットにいることにより、その間柄の親密感や不信感を現していて、アオイが身を投げる時の天然林の部分は、異世界へと旅出つことを強調していました。
また、格子状に盛られた砂が、最初は整然としていながら、徐々に崩れていく様は光一の心情が揺れていくことを示唆し、また誰が砂を荒らすかでもその人物の立場を語るということも同時に表現していました。

ところどころに喜劇の要素を入れながら、事実笑いが起こるシーンが随所にありながら、己が己を縛っているのが人だという、かなり辛辣なことが語られてい演劇でした。

最後に、宮城さんのカメオ出演というサプライズがありました。カメオとは言えない位の長い出演でしかも演技も達者でした。とても楽しかったです。

【いもたつLife】

日時:2015年05月07日 08:38

田植え前

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代かきが終わり、苗が揃い次第田植えの田んぼです。
ほしいも産地の近隣の米どころの常陸太田市では、
ゴールデンウィークは田植えの最盛期、
ほしいも産地では、連休後半からが最盛期です。

【芋日記】

日時:2015年05月06日 09:38

鯉幟

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ほしいも農家を回っていたら、鯉幟が。
そういえば、この家は孫が生まれたのを思い出しました。

【芋日記】

日時:2015年05月05日 12:34

【SPAC演劇】 メフィストと呼ばれた男 演出 宮城聰 作 トミ・ラノワ

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「メフィストと呼ばれた男」を語る上で、3つ賞賛したいことがあります。
1、 1932年から45年までのベルリンを垣間見ることができる舞台設営
2、 登場人物達の、その時々の心情を語りつくす「劇中劇」の素晴らしさ
3、 なぜこの劇が今上演されているかのメッセージは、作り手が私達に期待を込めていると私は感じたこと
この3つを書きたいと思います。特に3番目は強く心に響きました。

まず舞台設営ですが、実際の観客席を舞台の一部として使っています。
通常は、手前が客席、奥が舞台ですが、劇場を奥から手前に分断しています。だから客席と舞台の左半分がこの劇の舞台になります。観客は右半分から左半分の舞台を見ます。
よって観客は、この劇の舞台になるベルリン国立劇場の舞台と客席を含めた全体を横から見る形になります。

「メフィストと呼ばれた男」の背景は、1932年から1945年までのベルリンです。その間にドイツが歩んだ道を国立劇場の俳優(芸術家)達の姿で語ります。
だから劇では、劇中劇もありその劇中劇の稽古も、揺れ動く情勢での俳優達の不安やこれからの劇団のことを議論する姿も、間近に行われます。
それを覗き見するような感覚での鑑賞です。
第二次大戦でドイツがどうなるかを私達は知っていますから、登場人物達がどうなっていくかも察しがつきます。ですからこの観劇は、覗き込みながらも俯瞰することになります。そのお膳立てができている空間でした。
そしてこの舞台の長所として、横に長い空間も挙げられます。
舞台奥から客席の出入り口までが舞台になりますから、離れた距離の表現が感じやすく、実際、主人公と亡命した女優とのやりとりでは、舞台の離れた位置を活かしていました。
また、為政者は舞台中央上部で、戦争末期で苦しむ市民の代表は舞台左で、亡命した女優の当時の苦悩は舞台右奥でと、3者のやりとりもこの空間を十分活かしていました。

劇の始まりは1932年のドイツのベルリンの国立劇場、そこでは「ハムレットの舞台稽古(劇中劇)」が行われていました。そこにナチスが第一党になった報が入ります。

この劇の主役はクルト。演技の天才でハムレットでは演出家としてもデビューする予定です。共産主義者だったために、ナチスの台頭で自分の地位が危うくなることを気にします。
その時の芸術監督はヴィクターです。彼はクルト以上の共産主義者で、この後、通称「巨漢」と呼ばれるナチスの文化大臣(モデルはゲーリング)に芸術監督の地位を剥奪されます。劇団を去るつもりが、クルトに説得されて役者として残ります。

巨漢がクルトを芸術監督に据えた目的の第一は、クルトにプロパガンダの演劇をさせるためです。もう一つは、クルトの才能をドイツが失うのは、あまりにも惜しいからです。

当日、クルト、ヴィクターと、ナチス党員のニクラスが、演技に関しての見解を発端に、ユダヤ人である主演女優のレベッカを巻き込んだ言い争いが起きていました。ユダヤ人差別をするニクラスに対してクルト、ヴィクターはニクラスを退団させるのですが、ナチス第一党の結果はニクラスの復帰と、逆にレベッカともう一人の主演女優ニコルを亡命に追い込みます。
また、巨漢の愛人で大根役者のリナが巨漢のコネで主演女優になるという布陣で、クルトはナチスの下に国立劇団の運営を余儀なくされます。

ここまでが大まかな前半。後半は、前半の10年後から終戦までになります。

前後半通して劇中劇が多数入ります。戦況の悪化とともに、クルトの苦悩が増していきます。そのクルトの心情は劇中劇で表現されます。
まず、芸術監督に就任した直後は「ハムレット」で、クルトがナチスに迎合していってしまう心は「ファウスト第一部」で、そこから時は進み劇団員のクルトを見る目を「リチャード三世」で、というようにです。
また、劇団員が議論を交わし収拾がつかない状態は「ジュリアス・シーザー」、そして、ドイツが東部戦線で苦戦している頃は、ソ連の芸術を全否定しますが、「櫻の園」等の劇中劇を挟むという演出です。
圧巻は、どうにもこうにも立ち居かなくなったドイツとクルト本人を表現する、クルトを演じた阿部一徳さんの劇中劇のメフィストでした。クルトはメフィストを演じれば右に出る者はいないという設定で、それをそのまま感じさせました。

この劇では劇中劇が多いことに加えて、それが登場人物の心情や、劇中の社会情勢と的確に繋がる役割を果たしていました。

この演劇の原作はクラウス・マンの「メフィスト 出世物語」です。もちろんクルト(原作ではヘーフゲン)の出世が描かれています。「メフィストと呼ばれた男」でもクルトは出世します。
クルトがヴィクターに散々罵られながらも巨漢の招聘に応じた一番の理由は、演劇を続けるためです。ナチスはクルトが芸術監督を引き受けなければ、他の誰かを据えたでしょう。演劇の上演は、民衆を動かすための有力な武器だとナチスは考えていて、それはクルトも承知でした。
クルトが芸術監督として与えられた条件には、演目を選べることをはじめとした、世に溢れる失業している役者も、たとえ共産主義者であっても採用できるという程の大きな権限と、共産主義思考だったこれまでのクルトの過去を一切咎めないという最上級のものでした。これだけの条件ならばクルトは、当時のドイツの民衆に、演劇で喜びを与えることができるという芸術家としての使命と喜びを得られる、そして、それができる第一人者が自分であるという自負もあり、クルトは国立劇団を率いることにしました。

クルトはその地位を活かし、一人でも多くの失業した役者に役を与えることに腐心し、次第に不安を増していく大衆に勇気を与えるために演劇に没頭しました。
ナチスもそんな彼に報いるために、最大限の待遇を与えました。
彼はまさしく出世したのです。豪邸を構えることもできました。亡命先で不自由を経験し、戻ってきた主演女優ニコルを亡命以前の待遇で迎える事をナチスに承諾させる裁量もありましたし、そのニコルと裕福に暮らすこともできました。
彼は、彼が成していることからすれば、贅沢な生活は分相応だと感じていたはずです。でも、ヴィクターやレベッカには、魂を売った姿に映りました。

この演劇は歴史の動きに翻弄されてしまったクルト以外の芸術家達の個々の姿にも言及します。
クルト達の演劇に対して、ドイツ国内の情勢が悪化するに従い、巨漢からの要請はどんどん厳しいもの、自由な演劇を規制することになっていきました。そして終には、ナチスの宣伝大臣(モデルはゲッベルス)が登場し、演目を決める自由さえもクルトは奪われてしまいます。
それに耐えられないヴィクターはナチスに逆らい投獄されます。ヴィクターは魂を売ってまで芸術を続けることができなかったのです。

ナチス党員だったニクラスも耐えられない一人でした。彼は、ナチスこそ労働者を貧困から救える存在だと信じて入党しました。ところが政権を奪取してからは、その導きは幻想だったことに失望します。軍部上層部と、一部のブルジョワが支配する構図は変わらないどころか、増々エスカレートするナチスに敵意を抱くようになり、巨漢と宣伝大臣の目の前で反発します。もちろんそれは死を覚悟してです。

同じく魂を売る引換として今を生きることができなかったのが、もう一人の若い主演女優のアンゲラです。彼女は役者としても人間的にもクルトを尊敬し、慕っていました。クルトが多くの民のために尽くしたことに力を貸すことができることに意義を感じ、それに応じて自らの成長も見出せていました。けれど、ヴィクターやニクラスが葬られることには耐えられませんでした。クルト達とは別の道へ、亡命を選びます。

ではクルトは魂を売ったのでしょうか?私は違うという考えです。
彼は芸術家として秀でていましたが、同時に合理主義者で、祖国ドイツの愛国者です。命の危険を感じた時にも亡命の選択肢を拒みましたし、祖国のためにその時々の状況に置かれた自分ができることを最大限やることに、全力を尽くしたのです。
大局的に考える男で、民のためになるならば、手段は自分の意思に背いてもそれは魂を売ることではないと考えたのです。でも迷いはなかったとは言えないでしょう。当然苦悩の日々だったでしょう。

劇団には、クルトの母ママヒルダもいます。彼女はいよいよ大戦が終わる直前に、クルトの前で苦しみながら亡くなります。また、愛人のニコルも自暴自棄になり戦地へ身を投げ出してしまいます。それらの直後に終戦となります。
そしてクルトは、新総統から引き続き芸術監督の要請をされ、なんとそれを受けるのです。
これまでの経緯を追うと、結果としてクルトはナチスに加担していたことになります。そして目の前で母も亡くします。それでも彼はまた新しい国のために尽力する精神があるのです。合理主義者であり非常に貪欲であり、自信家であり、あくなき闘争心を持つ者です。

平和の訪れと共に、レベッカとアンゲラは帰国します。舞台へ戻ってきてくれたと勘違いして喜ぶクルトですが、彼女達はクルトとの決別を告げに来たのです。彼と相入れる心をとても持てないのです。
劇はラストを迎えます。クルトの思い悩む姿で終わります。

この演劇は、どう生きることが美しいことかを、問いかけている、これが私が「メフィストと呼ばれる男」で最も感じたことです。
それを揺れる時代の芸術家達の姿で示しています。クルトと他の人達との対比で示しているとも言えます。

穢れた自分でいられない、あくまで清く生きたい、そんな想いが強いのが、レベッカでありヴィクターでありニクラスであり、アンゲラです。もちろんユダヤ人であったか、裕福な生まれであったか、貧困であったか、共産主義か、ナチズムに傾倒していたかでの個々の差で、結末の違いはありましたが、皆クルトとは違う美意識です。
クルトに近い存在のニコル、ナチスが栄えていた数年間、彼の意思を尊重し彼を支えたニコルも最後は、自分の過去を自分で拒否して自暴自棄になり、戦地に飛び込み死を選ぶということをします。彼女でさえもクルトとは違うのです。
ではクルト以外は美しい生き様で、クルトはそうではなかったのかとは私は思えません。
クルトは最善を選んだのです。でも仲間からは受け入れられませんでした。
最善を選んだのは、巨漢も、宣伝大臣も同じです。しかし戦犯として生涯を閉じました。最善を選んだのは、民衆も同じです。もちろんナチスに抱いていた、期待していたこととは真逆の結末に、世の中が大惨事となってしまったのですが、ナチスを支持したのは事実です。
クルトも美しく生きようとしていたはずです。でも崖から転がる石が止まらないように、ナチスがクルトの自由裁量を奪えば奪うほど、ナチスが窮地に陥るほど、プロパガンダ色が強い演劇をせざるを得なくなり、ナチスへの加担というレッテルが貼られていったのです。
しかしクルトは投げ出しませんでした。

1932年にナチスを支持した民衆は、この演劇の原作、クラウス・マンの「メフィスト」が出版された1936年にはベルリンでのオリンピックで、ドイツの反映と平和を確信していました。誰がその後のドイツを想像することができたでしょうか?
日本ではたまたま平和が続いています。では今の時点で、近い未来に日本が先の大戦のようなことを起こすことがないと言えるでしょうか、そんな保障は一切ありません。でも、それが起こるとは大衆は思っていません。

この演劇で、第二次大戦に巻き込まれるドイツの芸術家達を覗き見ました。その先の一般市民の格闘と苦悩も想像させる劇でもありました。
演出した宮城さんは、この劇を上演した想いとして、「日本で根付こうとしている公立劇場の存在とは何かを考えるきっかけを提起したい」と言っています。
クルトと同じ立場、公立劇場の総監督としての宮城さんは、私達市民に考える力を養うことを期待してこの演劇を持ってきたのだと思います。
世の中に潜んでいる解らないけれど感じるモノを、芸術は、抽象的ですが提示してくれます。
考える力とは、芸術が語る真意を感じる力、受身でいるだけでなく、自ら察する力を養って欲しいということです。
そして自分自身に美しく生きることを常に問う、それも期待しているのがこの演劇であり、メッセージであると私は思います。

【いもたつLife】

日時:2015年05月04日 10:20

田園に死す 1974日 寺山修二

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日本だけに限らないかもしれませんが、
日本の田舎、貧困が残る村における閉塞感、
子が母に精神的に支配されても、子は結局のところ母を心の外には出せない、
外部環境でも、自分の中でも潜む閉塞感が表現されているような印象を持ちました。
まだ日本は豊かではないことを体感している世代では、
家長制度の名残が体に染み付いていて、心のどこかでこの映画で描かれる閉塞感を持っているのではないかと思いました。

主人公の男は、15歳と大人になってからの二人として登場します。
どちらも、女性に精神的に逆らえないように見えます。
これは、母から逃れられないのが主人公だからです。

翻って自分自身を鑑みると、私も心の奥に母親から束縛されていることを感じる時があります。
日常生活で、“これがそうだ”ということに気づくのではなく、
何か事件が起きた時の自分の心の動機を、深く考えた時に気づくのです。

非常に難しい表現の映画ですが、
主人公の心の中で起きていたことに近い心の動きが自分にあることには共感できました。

【酒呑みのひとりごと】

日時:2015年05月03日 07:17

ホーリーマウンテン 1973墨/米 アレハンドロ・ホドロスキー

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キリスト風の男が仲間を連ねて、ホーリーマウンテンを目指します。
目的は不老不死を手に入れるためです。
という一応物語にはなっていますが、
アレハンドロ・ホドロスキー作品ですから、メインはもちろん描写です。

監督がやりたいこと、盛り込みたいことを、全て入れ尽くしたというのが印象です。
とにかく盛りだくさん。
しかもどのシーンも手間隙惜しまずです。

体中に昆虫(タランチュラのシーンもあり)まみれの撮影や、
猛獣も出てきますし、大量のカメレオンとヒキガエル等々、調達だけでも骨が折れそうですし、
とてもグロテスクですが、凝った、金がかかっているセットや美術、
手抜きなしです。
でも意図はわからない。

登場人物も奇怪な輩ばかり、また全員がほぼ裸です。
そして登場人物の妄想の具現化のシーンも数々です。
人の欲望の嫌らしさを限りなさをこれでもかと見せ付けます。

幸いに劇場でみれたので、
鑑賞というよりも、アレハンドロ・ホドロスキーの世界を体験した気分です。

追伸
5/1に、5月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“薪ふかし紅マサリ平ほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2015年05月02日 07:46