いもたつLife
【spac演劇】寿歌 演出:宮城聰

核戦争後の絶望世界、相棒と二人だけでそこにポンと置かれたら自分はどうしているか?
そこにあまり頼りにならない神のような存在が現れたら何をして貰おうとするか?
「寿歌」はそんな境遇ではこんなことが起こっているんだという話で、それはそれは暖かく、人を好きになる、人は強いことを感じる劇です。
ゲサクとキョウコは旅芸人で、リヤカーを引きながらまだミサイルが飛び交う中を彷徨っています。正確には彷徨うのではなく、「ちょっとそこまで」行こうとしています。
何をしながらか、もちろん芸をしながらです。
二人はやたらと明るい、なぜこの世界で明るくいられるかという位に軽い。深く考えること、悩む事、悲しむこと、落ち込むことを通り越してしまったのかとも思えるのですが、それとも違います。
そこにヤスオが登場、彼は二人よりもかなりまともな神経ですが、ヤスオもめげていません。
3人旅が始まります。
その道中、舞台はずっと笑いに包まれます。
くだらない漫才、でたらめな歌と踊り、街にたどり着くとそれを披露するゲサクとキョウコ、そして今はヤスオも入って。
観客はいません。もしかしたらもう二人とヤスオしか世の中には存在していない世界ですから。
でも旅芸人ですから、芸を披露するのです。
とっても悲しいけれど、人はとても崇高だと思える劇です。
頼りにならないけれど、神はきっといて、というか、自分を観ていてくれる存在はきっといて、頼りにならないことも十分承知、といいますか、頼りにならないからちゃんと生きていくことができるのが人です。
もう40年近く前に作られた戯曲で、当時よりも世の中がこの「寿歌」の世界に追いついてきていると多くの人が感じるでしょう。
でも世の中がどんどん悪くなっているかはわからないし、それと自分の生き方は別ですし、どう生きていくかこそがいつの時代もそれが全てで、それを考え決めることが大事で、この「寿歌」もそんなことを提示してくれる劇でした。
【いもたつLife】
【spac演劇】民衆の敵 演出:トーマス・オスターマイアー

温泉がある事で栄えている街のトマス博士は、その温泉が実は汚染されていることを突き止めます。これは世に知らせなければ、で始まりますが、温泉を正常にするのにはべらぼうなお金と、カネのなる木である温泉街を2年間も休みにしなければならないということから、トマスには圧力が徐々にかかります。
トマスの兄は市議で彼の猛烈な反論がトマスにかかります。それはトマスの証拠だけでは信じられないと言う屁理屈を発端とするもので、市議のその意見はトマスに協力的だったマスコミをも隠蔽に向かわせます。
という現代でも、日本でも、堂々とまかり通る内容です。
この話を、市議たちの今を取るという乱暴な主張、対、トマスの正常な主張、という対立から、それを一歩進めた、近代の先進国が歩んできた経済優先ゆえに精神の荒廃が起こり、それが悪であるとトマスの主張は過激になり、原理主義を貫くようになっていき、それと市議たちを対峙させるという構図にこの劇は持っていきます。
その対立シーンが佳境になると、なんと舞台俳優がこれについて、その場に集っている観客相手に議論を促し、実際に論議を交わします。
この実際にありがちな事件を表面だけでなく、その奥底にある、人が人との間で起こる問題はなんだ、という普遍な問題として提起しています。
またここからも出色です。あくまでも世の中は悪意にまみれているといまで迫るトマス、市議たちは確かに自分たちの利益で動いていますし、改めなければならない行為をしていますが、果たしてそれは市議たちだけかと、トマスはどうなんだという所へとトマスを追い込みます。
トマスの義父は地に落ちた温泉施設の株を買い占めます。もう二束三文ですが、大逆転の可能性があるからです。それはトマスが主張を翻すことで、トマスの目の前にはトマス名義の株が置かれます。トマスは妻と共にそれに見入る、それが最後のシーンです。
正義は絶対ではありません。同じ事象が正義と悪とになるから諍いが絶えません。だから温泉が汚染されているのは事実でも、それへの対処は立場と役割でまるで変わります。トマスにとって汚染は許せない事実であったのが、許したくなる立場と役割になる皮肉で終わらせています。なんと意地悪な劇でしょう。
またトマスの原理主義的な主張もあまりにも決めつけすぎです。そこには民衆に対しての操作が裏に隠れています。正義を主張することで支配する立場になっていくという怖ろしさを見せつけています。
私達が生きている社会は、確かに上手く機能しているとは言い難いでしょう。でもそれを解決するのは一通りの正義があれば進むのかと言えばそんなことはあり得ません。そうであれば何もしないできないで良いかと言っている訳でもないでしょう。
ただ少なくとも踊らされることでは解決はないことを示唆しているように感じました。
最初の家庭のトマス家族の平穏シーンから段々不穏になって行くのですが、日和見な他の登場人物を映し、ではトマスの家族は潔癖かというとそうではないことも匂わせるなど、演出は細かく気が配られ、また緩急を付けてもしてとても味があります。また、俳優の演技も鍛え上げられています。そしてテーマも深く素晴らしい劇でした。
追伸
とても個人的な意見ですが、私はなるべく繋がらないことはこれからますます大切になっていくと思っています。自分の等身大で守れる範囲で守りたいモノを守る、利己な生き方でOK、ただし節度が十分にあればです。
【いもたつLife】
【spac演劇】リチャード三世~道化たちの醒めない悪夢~ 演出:ジャン・ランベール・ヴィルド ロレンゾ・マラゲラ

道化師に扮したリチャード三世の人となりを、もう一人の登場人物との二人芝居で、舞台セットは見世物小屋でその中で演じます。懐かしさがありながら、斬新な切り口で、そして巧妙に計算された見応えある劇です。
道化のリチャードに対して、もう一人がエドワード四世、クラレンス、アン、エリザベス、ヨーク公爵夫人、皇太子エドワード、ヨーク公リチャード、バッキンガム公、ヘイスティングス卿、ケイツビー、グレイ卿、リヴァーズ伯、ドーセット候、ロンドン市長、暗殺者(暗殺者だけは二人登場し、リチャードを演じた役者も演じます)という多数の役割はもう一人が担う二人劇ですが、脚本や台詞、衣装で明確に混乱することなく劇は進みます。
交通整理されているようです。
次から次へと自己のために王になるために成り上がるために人を殺めるリチャードですが、市民を味方につけ、その演出が面白い、観客を市民に見立てて、煽る煽るです。
本音と建前が交錯しながら進むのですが、三つの箱の見世物小屋とその屋上を、場面ごとに話に合わせてユーモラスを基本にセットし、まず視覚でリチャードの思考と劇の進み具愛を訴えるやり方はズバリろいう感じで、本当に良くできています。
見世物小屋は、おもちゃ箱のようであり、でも衣装はじめ美術は凝っていて品質が高く練り上げられていることが解ります。
お見事な美術です。
話は別にして、カラクリのような楽しさを味わうだけでも観劇の価値ありです。
でも訴えていることはシリアスで、道化のリチャードはその姿とは正反対の顔が覗き見れます。
そして頂点に立った王になったリチャードは当然のごとく破滅を迎えます。
でもリチャードは常に一生懸命だったのです。もちろん祖国を憂いてもいましたから、なんとかしようとして足掻いていた、もう真剣そのものだった、でもその姿は道化でしかなかったということで、とても寂しくなります。
そしてそれは一般でも起こり勝ちなことで身近に感じます。そんな姿を自分も晒していないか、それも強く感じました。
【いもたつLife】
【spac演劇】夢と錯乱 演出:クロード・レジ

1914年に27歳で亡くなったオーストリアの天才詩人ゲオルク・トラークルの詩の世界に誘います。観客にトラークルの心情を、何を問うていたかを、また現実社会の不条理を、受け手の心の深い所に楔を入れて、そこからはその人自身が想うがままに任せます。
漆黒の闇にほんのりと浮かび上がるトラークルの分身が訴えるのは、トラークルに観えていた世界で、破壊、暴力、支配、残虐、絶望で、まるで分身はトラークルの亡霊のようです。
劇場としては小さい箱、闇、ほぼ音響無し、その中での分身の叫びと嘔吐、観客は逃げることができない中で受け入れざるを得ません。造り手は漏らさずにトラークルの想いを伝えたいのです。
以前クロード・レジの「室内」を観劇しました。その時と同じ感覚は、レジは受け手を信頼していることです。今回もそれを強く感じました。
劇の解説のほんの一説に「この演劇は希望がある」と書かれていましたが、濃密な60分にそれを感じることはできませんでしたが、今、もしかしたらレジが受け手を信頼していること、レジのこの強烈な言伝は観客に少なからぬ変化をもたらすこと、それが希望であるように思えてきています。
【いもたつLife】
【spac演劇】ミヤギ能 オセロー 夢幻の愛 宮城聰 演出

宮城さんが描く感動的な夢幻能で、人を愛することの貴さ、信じあうことの難しさ、心の想いは裏腹な行動を起こしてしまう人の厄介さが詰め込まれています。
デズデモーナが彷徨える幽霊となって巡礼の前に現れる前場、
オセローがデズデモーナを手にかける経緯を描いた間狂言、
そしてデスデモーナの幽霊が優麗に成仏していく後場で構成されています。
オセローはデズデモーナを絞め殺し、その後すぐにその原因となった理由のオセローの嫉妬は、実はイアーゴに嵌められたことだと解り、後追い自殺をするのですが、それがデズデモーナが死んでも死に切れない状態にしてしまいます。
愛する者に手をかけられたことに悔いは全くないことをオセローに伝わらなかったからではないか?ということがこの夢幻能の始まりではないかと、今回すごく感じました。
オセローはデズデモーナを絞め殺したことを悔いて自死しました。哀しみもあったでしょう。イアーゴに嵌められた悔しさもあったでしょう。でもデズデモーナはオセローが彼女に手をかけたとはいえ、純粋にデズデモーナを喪ってしまった哀しみで後追いして欲しかったのではないかと観ていて思えてきました。
二人ともお互いをどれだけ愛していたかは解っていたはずなのに、一緒に死ぬ事なんて全く厭わないことはお互いの気持ちであったから、デズデモーナはオセローに殺されることに何も不満も不安もなく、望むところでもあったのに、オセローは手をかけたことを後悔してしまった。
デズデモーナの心底の愛が伝わらないでオセローは死んでしまった。
これではデズデモーナはあの世にいけません。
この愛をオセローが汲み取るのがこの夢幻能で、それが伝わりデズデモーナは成仏できた。オセローももしかしたら彷徨っていたのかもしれないけれど、オセローも成仏できて、一緒に三途の川を渡っていった。それが描かれていた後場に感動しました。
二度目の観劇ですが、やはりこの後場のデズデモーナの美加里さんの仕草がハイライトで、右手の厳つい手でオセローを現し、清き白いデズデモーナの衣装と対比され、デズデモーナとオセローが一体になっていく様がとても美しいです。
これに照準を合わせて前場も間狂言もしたためられています。
そしてこれもいつものことですが、美術が素晴らしいし、打楽器・和楽器が心を打つし、俳優の、今回は特に美加里さんの動きが本当に鍛えられていました。
そして、声が重なる地謡の台詞とナレーションの効果は絶大で、感動を呼びます。
日本の言葉の美しさも感じます。
二度鑑賞できて良かったと本当に実感しました。
【いもたつLife】
【spac演劇】ミヤギ能 オセロー 夢幻の夢 宮城聡 演出

13年ぶりの公演とは知りませんでした。
そして、当然ですが進化していることもアフタートークで知りました。
それはさておき、凄く素晴らしい演劇でした。
シェークスピアのオセローを夢幻能に仕立てた劇です。
ミヤギ能ですから、ムーバーとスピーカーに別れます。そして打楽器に和楽器が、衣装が、舞台が、能らしさを下拵えし、そこにオセローが乗ります。(しかし随所でムーバーの台詞があります、これが憎い演出です)
しかし、もっと能というか和らしいのは、台詞の伝え方です。
多人数の台詞という音を重ねて重ねて、幽玄さはもちろん、力強く、美しく、織りなすようにオセローの筋を伝えてきます。
夢幻能であることから三幕構成で、第一幕でしたためて、それを第三幕で決着をつけ、第二幕は、前後の真剣勝負に観客を巻き込む雰囲気から解き放たれた、軽快な舞台です。それが段々と重たくまるのが味噌ですが。
三幕は圧倒です。
主演のデスデモーナの美加里の魅力が十二分に発揮されます。
一幕とは打って変った衣装に象徴されるように、デスデモーナは何故今黄泉の国から現れた、それはどうしても成仏できないからということで、今ここで関わる者達にそれを語ることが病むに病まれぬことということ、それは、オセローと一体になるのが今ここであるからということ、それを観客に同意させる演技です。
相変わらずの完成度の高さのspac演劇(宮城さんの演出)です。
随所の暗喩はまだまだ堪能できていませんが、それは置いておいて、素晴らしさはひしひしと伝わってきます。
今回も、もっと観劇の嗜みがあればもっと堪能できたことを想う観劇でした。
追伸
2/19は「雨水」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「雨水」の直接ページはこちら
雨水
【いもたつLife】
贅沢な落語会

柳家花緑師匠は、節分と立春は毎年静岡に来ます。
平沢観音で豆まきをしにです。
この行事は、師匠の師匠の小さん師匠から続いているそうです。
立春は浮月楼で落語会です。
これが豪華。
落語は、
弟子の前座の緑助さんの元犬、
続いて同じく弟子の二つ目の圭花さんの穴どろ、
そして真打 花緑師匠の井戸の茶碗です。
記念撮影して、師匠を囲っての食事会です。
その後福引きまでありました。
【いもたつLife】
【spac演劇】しんしゃく源氏物語 原田一樹 演出

末摘花が光源氏を待って待って待つ、その物語を喜劇仕立てにしてあります。可笑しいのですが、不憫です。でも人生は自己責任を訴えてきます。
可笑しいのは末摘花に仕える侍女たちです。もう経済的に行き詰っている没落貴族の末摘花をいつどうやって見切りを付けるかから始まり、でも義理堅い気持ちもあり、でももう立ち行かないのは見えていてということで、ドタバタしながら、末摘花の前では建前を、侍女同士では本音が語られます。
でも侍女も色々、金の切れ目が縁の切れ目から、あくまで尽くそうとる者までいます。
そして、末摘花の叔母が貴族でない成り上がりということも面白い、古今東西、名誉と金の関係は普遍です。
末摘花は、一途に何年も光源氏を待つのですが、経済的に困窮していることはかなりお構いなしの天然キャラです。
天然キャラは慕われるのか、困窮している彼女に慕う侍女という感じです。
でももうどうしようもなくなっていきます。
叔母は末摘花に身辺を清算し、待つのをやめるように再三再四口酸っぱく進言しますが、待つことをやめない末摘花です。
彼女にはもう待つことが人生そのものになってしまったようです。
待たない選択肢はありません。人生そのものが崩れるからです。
ラストは、奇跡が起こります。光源氏が末摘花に合いに来るというところで終わります。
すると末摘花を見切った侍女たち、叔母さえも、末摘花を祀りあげるのです。これも人の性で、奇跡が起こるというのも罪な気がします。
末摘花は待つことしかできなかっただけです。
まあそんなことを考えてはいましたが、とにかく面白い演劇でした。笑いが絶えない劇です。
侍女の一人に侍従という人がいます。
この侍従だけは誠実で正直で知恵者でした。彼女は母の婆や(末摘花の乳母)のことも末摘花ことももちろん、この家のことまで考えることをする人でした。
他の侍女も、末摘花も他者責任で生きてしまう人ですが、侍従だけは自己責任で生きる人でした。これもこの演劇の意図でしょう。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】変身 小野寺修二 演出

躍動するカフカの変身という印象です。
毒虫になってしまったグレゴールと語り部は、役者が入れ変わります。
それ以外の、父、母、妹、支配人、老女、3人の間借り人は役が決まっています。
そして劇は原作通りに進みますが、入れ替わる役者、定まった役者が縦横無尽に舞台を駆け巡ります。
そして舞台そのものも、変化していく、その両方が合いまってリズミカルに、皆でダンスをしながら、そのダンスもパフォーマンス溢れて美しい。
いつも思うことですが、SPACの俳優はみなとても鍛え上げられています。
劇はもちろんカフカの変身なのですが、ダンスの劇でもあるかというほどです。
入れ替わる毒虫と語り部により、原作のエッセンスが抽出されます。
グレゴールは世の不条理の真っ只中に晒されてしまうのですが、そのグレゴールが家族であることで背負う家族の苦悩は普遍的で、他人はそれを横目で見ます。
観客は当然、苦悩する当人にも、家族にも、他人にも自分を重ねます。そして世の中の仕組みの嫌らしさを味わいます。
繰り返しますが、役者は動く動く、舞台も変る変る、グレゴールと語り部もとって変わりながら進みます。実際の世の中も変るのが常です。それを勢いある演出(ダンス)で描かれるが故に、世の中の構造は変らない、人の苦悩も永遠ということが露にされる作品でした。
【いもたつLife】
柳家小三治 一門会

真打4人、しかも三三師匠も登場という豪華メンバーの一門会でした。
初っ端は3月に真打昇進したという小八師匠の“鈴が森”。
軽妙な語り口でくすくすくすぐられるようです。15分位の演目で、まずは幕開きです。
続いて三番弟子という、はん治師匠の“ろくろっ首”。
これは小三治師匠の音声を何回も聞いています。完成度がかなり高いと思っていましたが、はん治師匠もほぼ同じ内容で語ります。面白かったです。
ここで仲入り。
後半、三三師匠が出てきたので吃驚。
そして上手いです。
枕は5分位で、“橋場の雪”にかかります。この演目も20分位と短め、もっとじっくりと三三師匠を聞きたいのですが、今回は小三治師匠の繋ぎ役に徹します。
場が十分に盛り上がり、真打の真打登場です。
小三治師匠ももう80歳近いということで、病気ネタが枕。これが爆笑モノで、あの飄々とした語り口は合い変らず。自虐ネタですが、私も含めて観客も年齢層が高いので、自分のことが重なります。それは体のこともそうなのですが、密かに抱いている気持ちを代弁するところが、少しシニカルなところがとにかく面白いのです。
ひとしきりのおしゃべりの後、時間もなくなってしまうからと“千早ふる”に。
ネタに入ると、語気も勢いが強まりながらも緩急自在、流石です。
今まで聞いた“千早ふる”の中でも一番かと。音声だけですが、小さん師匠の“千早ふる”よりも良かったです。
とっても楽しい落語会でした。
【いもたつLife】