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ブログ 今日のいもたつ

銀幕倶楽部の落ちこぼれ

季節のはざまで 1923瑞/独/仏 ダニエル・シュミット

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少年時代の過去を振り返ると温かい過去の映像が現れます。
それに付き合う映画です。

その過去とは、ダニエル・シュミット自身のようですが、
それはともかく、その映像を観ると、彼がどんなふうに生きてきたのかがわかります。

翻って、自分が過去を振り返るとどんな映像が浮かぶのでしょうか。

スイスの山の中の今はもぬけの殻になったホテルを訪れたヴァランタンは、
少年時代にここで過ごしていました。彼にとって特別な場所です。
一人、ホテルの中を彷徨っていると、昨日のことのように過去が蘇ります。

記憶は真実とは限りませんから、この回想も勝手に脚色されていますが、
そんなことはどうでも良いことです。
ヴァランタンにとってかかわりがあった人達とどう過ごしていたのか、
それは彼にどんな影響を与えたのか、
そして、それは彼に何を残したのかが大事です。

彼にとってここで過ごした少年時代は、ワクワクする楽しいことが多かったようです。
実際に多かったかはわかりませんし、辛いことだってあったのでしょうけれど、ワクワクし楽しかったシーンが最初に出てくるのです。

もうヴァランタンも決して若くはありません。
ホテルが取り壊されるのは寂しく残念なことでしょうけれど、
これまでの彼の人生で触れた、もう合えない人達に感謝の決着をつける時だったのです。

別れをして、ヴァランタンは残りの人生に向かったんだと、ラストの映像は語っていました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年11月02日 07:17

野獣の青春 1963日 鈴木清順

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和製ハードボイルドの傑作でしょう。
主演のジョー(宍戸錠)のハードな信念とタフさぶりに加えて、サスペンスとしても一級品です。
ただし、鈴木清順作品ですから一筋縄ではいきません。

洋館の背景が普通からガラッと黄色い砂嵐に変わったりといった凝った設定が多くあります。ハードボイルドで、ヤクザ同士の抗争の場所が矢切の渡しなどもらしさです。
また、登場人物が皆変人という設定です。

物語はコールガールと無理心中した刑事の死に不審を感じた元刑事のジョーが、二組のヤクザに潜入して抗争させて、なおかつ真相を暴くというものです。

設定で象徴的なのは、野本組は先進的なヤクザで、アジトも高級ナイトクラブ、親分の家も洋館です。考え方も先進的、ところが一方の三光組は、場末の映画館がアジトで、考え方も昔気質という対比です。最後の決戦でそのあたりを活かしています。

変人達も色々なキャラクターとしています。
野本組の親分は、サイコパス的なサディストで、ナイフ使い、ペルシャ猫を可愛がります。そして愛人を6人抱えています。(6人目の愛人が物語のキー)
その弟がオカマっぽい、こちらもキレルと何をする解らない不気味なキャラです。川地民夫がこんな役をやるとは、と思いましたが、ハマリ役ということも新鮮な驚きでした。
他にも、突然敵の女を好きになってしまう早撃ちの男や、プラモデルの飛行機が好きなヤクザ、到底親分の器ではない昔気質の三光組親分、この組は今までどうやって食ってきたかが心配になります。

刑事の無理心中には結構大きな背景があり、ジョーがそこにたどり着くまでの説明がかなり必要にも関わらず、しかも、多くの登場人物を配しながら、素早いカットで次々とプロットをこなすのがこの映画の特徴で、観客を惹きつける力があります。

凝ったセット、照明、演出プラス、宍戸錠の演技です。
清順映画としては抑え目かもしれませんが、十分に楽しく、完成度が高い映画です。

追伸
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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年11月01日 11:00

マルタ 1973西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の映画にはしばしば最低の人間が登場します。
けれどその人物と自分自身を一緒ではないと切り離してしまうことを決して許しません。

この映画の主人公マルタの夫ヘムルートは、マルタを支配しなければいられない人物で、
しかもドメスティックバイオレンスをもってマルタが恐怖に慄く様に快感を覚える男で、この男の興奮を求める姿は、悪魔の心の起点は理性が封じ込めているけれど自分の中にもあることを示す姿です。この映画はそれを省みさせられます。

またサイコパスを生む社会への問題提起もあります。映画の上でのドイツでは、まだ女性の社会的地位が低い男尊女卑を感じさせますから、当時の社会が生み出していた風潮へ言及していますし、もっと言えば、この問題は現代の方が根が深いと言わざるを得ません。

ヘムルートの巧妙なマルタへの虐待、マルタはそれに耐えることが妻らしいという認識があり、虐待はヘルムートの愛の裏返しだと受け取ろうとする姿(認知的不協和)は、単に夫婦の個々の性格でこの悲劇が起こったとは片付けられない社会が産んだ問題です。
けれども、やはりヘルムートは異常ですし、でも私の中にもあるデビルな人格だと言わしめる力が映画にあります。

強烈な映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月31日 07:18

沙羅の門 1964日 久松静児

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本当に自分に愛情を注いでくれるのは誰か?
そして自分が本当に愛情を注いでいるのは誰か?
世界でたった一人で良いからそういう存在があれば生きていけます。

禅寺の和尚は妻帯厳禁のしきたりがあるようで、
この映画の主人公の煩悩ありありの和尚(承海)には、
籍は入れていない、内縁の妻と一人娘(千賀子)がいます。
若い妻を亡くすともっと若い後妻(八千代)をもらいます。
物語は、千賀子が13歳のときに八千代を貰うところから始まり、
千賀子が21歳の女子大生にまですぐに飛びます。
京都を舞台に、承海に尽くす八千代と、男関係に悩む千賀子、
それを案ずる承海と、血は繋がらない千賀子にも親身になる八千代の、
3人を中心に展開します。

煩悩ありありでスケベな承海ですが、八千代に首っ丈です。
そして“金儲け坊主”と仲間の和尚に揶揄されながらも、千賀子の学費を稼ぐために、
一生懸命に檀家回りします。檀家も熱心な承海に感心しますが、
ある日交通事故で承海が亡くなります。

承海はあくまで、独身を通した立派な和尚として禅宗では祀り上げられます。
でも本当は煩悩ありありの人間くさい親父でした。
千賀子はそんな父親を煩わしいと思っていましたが、
亡くなった今はそんな生き様を立派だと想います。

内縁の八千代も戸籍上は娘でない千賀子も、
本葬には列席できません。そして、寺を出て行かなければなりません。

八千代と千賀子は血は繋がってはいませんが、
本当の母娘以上の硬い繋がりをお互いに確信します。
それをもたらしたのは承海の生き方だったことも解ります。
ここで映画は終わります。

原作ももちろん良いのでしょうけれど、脚本も演出も良いです。
リズムあり無駄が無い展開で話が流れます。

健気な八千代は承海にも、前妻の娘の千賀子にも愛を注ぎます。
それを受けながらも千賀子は、思春期から大人になる女の苦悩があります。
八千代が物分りが良いだけに父への抵抗から、若いから、羽目をはずしてしまいます。
そして禅宗に嫁ぐ(籍は入れられない)女の立場の矛盾に怒りを持ちます。
その家庭環境が時に千賀子を退廃的な生き方にしてしまうという話の流れもスムーズですし、
そんな娘を素知らぬふりながら、しっかりと解って心配する父親像もとても良いです。
それら3人の個性はとても人間くさいですが、
家族を何よりも大事にしている人間賛歌の物語です。

ラストは理不尽な立場に立たされた八千代と千賀子が逞しく生きていこうとするのですが、
その心の支えが一番身近な血の繋がらない家族=お互いだったというのも凄く良いです。
きっとこれから二人は時々喧嘩することもあるでしょうけれど、
仲良く、そして人にも優しくできることが想像できます。

なんてったって、二人は二人を無償で想い合えるからです。
人間の幸せはそんな人が身近にいることだと本当に思える映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月30日 07:22

プロミスト・ランド 2012米 ガズ・ヴァン・サント

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巨大な国の力で支配されていると感じてしまう映画です。

スティーヴはシェールガス開発会社グローバル社の有能社員で、同僚のスーと共に、アメリカの片田舎に行き土地の採掘権を獲得に行きます。(他の地方でも安く買い叩いた実績があるということが有能の理由です)
農業で生計を立てている人々は、決して豊かではありません(そういう設定です)。そこに、採掘権を売れば左団扇で暮らせることをちらつかせるのです。
次々に契約する農家達。契約をもっとスムーズに進めるためにスティーヴは、町長を賄賂で抱きこみ、集会を開き一気に契約を進めようとしましたが、集会には、シェールガスの採掘の水圧破砕の技術は、農地を死なせてしまうことを知る科学者が参加していて、住民はスティーヴに懐疑的になり、結局は3週間後に住民投票を行うことになります。
そんな中、環境保護活動家のダスティンが現れ、ますます住民は採掘に難色を示していきます。窮地に立たされたスティーヴも必死に抵抗します。

投票の前日、実はダスティンが語っていたことが嘘だったことが発覚、スティーヴは勝ちを確信しますが、それらは全てグローバル社の画策だったことも判明します。
スティーヴがとった最後の行為は・・・。

スティーヴは、彼自身田舎の農家出身者です。幼い頃、彼の村はキャタピラー社のお陰でなんとか食いつないでいました。農業では食えなかったということです。
そのキャタピラー社が村から撤退すると、村は立ち行かなくなったことを経験しています。だから、貧しい農家に採掘権と引き換えに金を渡すことは“絶対の正義と確信”していました。

映画の中で印象的だったのは、スティーヴが反対派の農家達を相手に、「どうせ今の農業も政府からの補助金があるから成り立っている。それがなくなればあんた達は路頭に迷う」(正確ではありません)
彼は農家の一人から殴られます。彼らにはタブーだからです。
ここに根深い問題があります。
大いなる支配で生かされる田舎町、都市や都会のための歯車が田舎である、と感じるばかりです。
彼らはそれを望んでいた訳ではありませんが、飼いならされる構造があったところに生まれた人々です。

おとなしく農業をやっていれば、大いなる力は牙を剥きません。それが時代の流れで、代々続いた土地だけれども今度はシェールガスの採掘をさせれば牙は剥かないよ、に変化しただけなのです。

ラストにも印象的なシーンがありました。
投票が行われる会場では、少女が25セントのレモネードを売っていました。スティーヴは一杯買い1ドルを渡し「釣りはいらない」と言います。
すると少女は「カンバンにも25セント書いてあるでしょ(だから75セントは返す)」(正確ではありません)
スティーヴは25セントだけを払いました。

私達は正当な対価をやりとりするというシンプルなことが、見えなくなっているのです。

世の中の構造を見つめて、誇りを持った生き方を促す映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月29日 07:30

アンナプルナ南壁 7400mの男たち 2012西 パブロ・イラブル

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アンナプルナとは、ヒマラヤ山脈に属する山群の総称で、第1峰は世界第10位の8.091m、南壁の東稜ルートは、最も登頂が難しいといわれていて、10人中4人が命を落とすそうです。
2008年スペインの登山家のイナキが、7400mの第4キャンプで高山病に罹ります。同行していた仲間からの知らせを受けて(またはそれをネット等で自ら見つけて)、世界中から彼を助けるために12名の登山家がベースキャンプに駆けつけます。
その時の様子を、12名の登山家が語るドキュメンタリーです。

当時の映像や写真は限られたものしかなく、映像の大半は、インタビューを受けている登山家達の日常を映しながらの彼らの声です。

イナキの元にたどり着くことだけでも命掛けの行為ですが、彼らは、知らせを聞くと躊躇なく救出のための動きをとります。その心境をはじめ、命掛けで山に登ることの彼らの心内が語られます。(かなりの危険だけでなく、膨大な時間と費用も、自ら背負います)

彼らの言葉は“友人だから助ける”というシンプルなもの。そして、“助けなければ一生後悔する”とも言います。
イナキと、とても親しい者もいれば、山やキャンプで挨拶する位の関係の者もいます。
映画内でも語られますが、彼らは山という国の住民であり友人であり兄弟みたいなものということです。
即席で集まった仲間ですが、目的はひとつで心もひとつです。
また、自らのことを「英雄ではない」と口々に語ります。

彼らに共通するのは、真剣に生きているということです。
命を落としても決して不思議ではない山に行くためということもありますが、いつも体を鍛えています。家族に心配をかけていることも十分に解っています。(家族は自分達の気持ちは解っていないという話もありましたが)
でも山に登ることを決めているからこそ、あんなに真剣に生きれるということが伝わってきます。
後悔しない生き方をしているのです。

結局イナフは助かりませんでした。
彼らは無念でならなかったでしょう。でもそれでも手を尽くしきったことに間違いはありません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月28日 07:28

越後つついし親不知 1964日 今井正

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親不知がある越後の部落の、時は昭和12年から13年の物語です。

主な登場人物は3名。主人公おしん(佐久間良子)は、幼い頃に両親を亡くし、
方々で働き苦労の末、働き者の留吉(小沢昭一)の女房になりました。
留吉と権助(三國連太郎)は伏見の造り酒屋に出稼ぎに行っていたのですが、権助の母が危篤で権助が村に一時帰郷します。
その時に権助はおしんを犯します。運悪くおしんは妊娠、彼女は悩みに悩みます。
春になり留吉が帰り、おしんの懐妊を喜びますが、権助の子とわかり、気が狂ってしまったかのようにおしんを殺害します。
正気に戻り人知れずおしんを葬った後、出征祝いの隊列の権助を親不知から突き落とそうとして、二人で海に落ちます。

救われない話です。
そして、なすすべもない立場のおしんの境遇に悲しくなります。

堕胎しようとするができない。
犯されたことを村人に言ってもたぶん取り合ってくれなかったでしょう。(推測ですが、合意だと判断されると感じました)
かといって留吉にも言えない。しかも留吉は大喜びです。

おしんは少女時代から苦労の連続でした。苦労を重ねてやっと留吉との縁があり、
やっと人並みの暮らし(貧しいですが)を手にしたばかりでこの顛末です。
何のための人生だったのか?と考えずにはいられません。

残念ながら生まれてきた境遇を覆すことができるなんて稀です。

今人は豊かになり万能であるような錯覚を覚える位、何でも自分の思い通りになる世の中ですが、こんなものは自分の力では全くありません。
幸運にも、たまたまそういう世の中に生まれてきただけだと再認識しました。

今井監督の演出はこの映画でも上手いです。
冒頭の権助がおしんを犯す伏線の東野英二郎との会話、ここで権助の動機付けと共に、物語の背景を説明します。
また、おしんと留吉が婚礼の日、豪華な輿入れとすれ違うようにして、二人の質素な輿入れがあります。
それ以外にも、留吉が誤っておしんを殺害してしまい、遺体を運ぶ時にすれ違う子供達。
これら主人公達の気持ちをシーンで代弁させたり、何気ない日常と、起きてしまった異常の対比で効果を高めています。

脇役もそうそうたるメンバーで、贅沢な映画でもありました。

そして、造り酒屋での仕込みの映像や、雪国での冬から春の農作業の映像や、荒れる日本海の風景等々、印象に残る貴重なシーンも多くありました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月27日 07:21

旅の重さ 1972日 斎藤耕一

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少々特異な母子家庭で育った16歳の少女が、
親離れのための葛藤の一人旅を綴ったロードムービーです。
蛹の状態の苦悩と成長がえがかれています。

新居浜に住む主人公の少女(名前は最後まで明かされません)は、
ある日ママに置き手紙して家出同然の旅に出ます。
それに動じないママで、この母子関係から脱け出したいのが少女です。

父を知らない少女、見知らぬ男の元へ通うママ、
二人は母子としての絆もありますが、お互いを疎い存在という意識もありました。
だから、少女が家を出るのは時間の問題でしたが、
それが16歳という早すぎる自律の旅で、だからドラマで、
観る者は、危険な匂いを感じながら、少女を見守ることになります。

勢いで旅に出た少女ですが、
様々な人との出会いで、傷つきもし、苦悩もし、成長もします。
その姿をリアルに捉えている映画です。

被曝した(初老の女性の)お遍路さんとの出会い。
臆病な痴漢のオジサンとの触れ合い。
雨宿りをきっかけに一宿一飯を施してくれる親切な家族(命の?がりを感じる少女)。
旅役者の一座との奇妙な数日間の生活、ここで少女は自律は責任を伴うことや、大人の男と女の姿等の生きる現実が身近になります。
病気になり追い剥ぎ(未遂)にあったり。
その後行き倒れて木村(少女には神様仏様に見える男)という男に助けられます。
そこで出会った女の子は、自分似ていて仲良くなった直後に女の子は自殺します。その姿に自分を重ねる少女。
そんな数々の人生で初めての体験で心身ともに疲れた少女は、
父を重ねていた木村に、自分を受け入れて貰いたい衝動になります。
でも不器用な木村はそれが出来ません。
木村から離れる少女でしたが、もう一度木村の元に行きます。

この後、どうなって行くかは全く解らない少女(と木村)写して終わります。
しかし、少女は母から離れることが出来ました。

思春期に誰もが遭遇する自分の存在意義と自律という
普遍的なテーマです。
少し歪んでいた母子関係が少女にそれを促していますが、
テーマを赤裸々に追ったロードムービーでした。

主演は高橋洋子、脇役で秋吉久美子、二人ともデビュー作のようで、
初々しいと共に好演でした。
脇を固める、三國連太郎、高橋悦二、岸田今日子等含めて、
しっかり作られていた映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月21日 07:32

イチかバチか 1963日 川島雄三

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城山三郎原作ですから、企業と行政を中心とした経済に纏わる社会ドラマですが、
川島雄三監督がユーモアを織り交ぜています。また、個人が持つそれぞれの人(社会)とのかかわりにも言及している映画です。

ケチを貫き通してきて、会社を育てた社長の島(伴淳三郎)は、人生最後に会社と自分の全財産をかけて、会社を自分を大きく成長させる賭けにでます。(この大きなプロジェクトがこの映画の骨子です)
その方法は鉄鋼事業で今までにない規模の工業団地をつくることで、その誘致に積極的になる一地方都市の市長が大田原(ハナ肇)です。
そして島の参謀として北野(高島忠夫)が島に強引に招聘されます。
物語はこの三人と島の秘書(団令子)と大田原の秘書(水野久美)が主で進みます。

島の個性(ケチに徹している)と川島流の演出で、普遍的な魅力ある人物で、この映画の主人公です。彼は最愛の妻を亡くしたばかりという設定です。
彼は、仕事一筋でした。社員ももちろんすごく大事ですが、パートナーでもあり、島は、社員も己とともに大願成就することを願っています。
北野は島の戦友の息子で、息子のような気持ちを持っています。でも企業戦士として北野に期待していますし、それに応える北野です。
そして、行政の代表として大田原(ハナ肇)が伴淳三郎と共に主役です。

表面的には、企業の成長と地方が国から引き出せる補助金の利害が一致した泥臭い話なのですが、内面は人情物語です。その両面を映している所がこの映画の素晴らしい所です。もちろん、笑いを織り交ぜています。

伴淳三郎とハナ肇が活き活きしているのも印象的です。川島演出に乗っています。
二人ともクセがある役にピッタリで、これまでの川島作品にないキャラクターです。(この作品が遺作でなければ彼等は川島映画でもっと活躍したでしょう)
どこまでが私(個)で、どこからが公かがわからない人物です。これはとても魅力があり、滅私を厭わないけれど私(個)も大事にするのです。
世間と個のかかわりをどう捉えているのか、自分が芯に求めているのが何なのかを問いかけてきます。
でもその問いかけがストレートではないのが、川島監督らしさで、登場人物にハチャメチャ(女遊び等)を盛り込んでいます。だから登場人物が真実味を帯びるのですが。

当時斜陽とされていた鉄鋼産業ですが、国のための大儀名分と自己を乗り越える大事と、もちろん会社のためで島が奮闘し困難を乗り越える活躍をします。
大田原もクセがある市長ですが、市民に真摯な人物です。ありきたりな議会とぶつかり合うという構図も見せ場です。
クライマックスの市庁舎での大田原と議会の演説合戦、島の人を観る感覚に、人の泥臭くも可愛い生き方の肯定を観ました。

この映画は、冒頭に20億円の現金が積み上げるシーンがあります。ラストには300億円 の現金を積み上げます。迫力あるシーンで、島はそれを見て、実物を見ないと価値がわからないと言います。プロセスが解らなくなっている現代への警鐘を感じるし、人間の性を語っています。

そして、ラストしシーンは大願成就が決まった後の3人の身の振り方です。
それぞれが今と決別するのですが、これは川島雄三そのものの姿です。惜しくもこの作品が遺作になりましたが、彼はまた違う映画を撮ることを決めていたのでしょう。それが断言できるラストです。
本当に次の作品が観たかったけれど仕方ないですね。

追伸
10/8は「寒露」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「寒露」の直接ページはこちら
寒露

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月09日 05:49

濡れた二人 1968日 増村保造

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この映画の結末は、ファーストシーンで既に決まっていました。
人は答えが既に出ているけれど、それを確かめるために生きているということが、
ままあるものです。

万里子(若尾文子)と哲也(高橋悦史)は結婚して6年経ちますが、まだ子供はいません。
そして、毎年のように旅行の計画を立てますが、哲也が仕事で多忙(東京でテレビ局に勤めている)なために、いつも没になっていました。万里子も仕事を持った自立した女性で、毎年哲也が旅行に行けるという日程で計画を立てるのですが、いつもドタキャンです。
この日もまた同じことが起きました。
けれど今回は様子が違います。万里子は一人で旅に出たのです。

流石にいつもと違う万里子の様子を気遣った哲也は、万里子の滞在先に一日遅れで追いつくという電報を入れます。
万里子はどうせ来ないと思いつつも、仄かな期待を抱いて駅に出迎えにいきます。
けれど、約束の時間に哲也は現れませんでした。

旅行先は万里子の田舎の南伊豆の漁村です。かつて万里子の親が世話をした女中の家で万里子は過していました。
旅先で万里子は、彼女よりも7歳若い哲也とは正反対な野生的な繁男という男に見初められます。
若くて粋がっているだけの繁男の言うことなんて真に受けなかった万里子ですが、強引な繁男、“欲しいものは欲しいという言葉と態度”の繁男に惹かれていきます。
自分にない素直さや、いつも堂々巡りばかりの考えの自分とかけ離れている繁男の生き様に惹かれたのです。

そして最後の最後まで約束を反故にされた傷心から、船の上で万里子と繁男は肉体関係を持ってしまいます。万里子にとって、“自分は変わる”という儀式のようでした。
しかし、滞在先に戻ると、なんと一日遅れで哲也が待っていました。
その夜、哲也にすべてを打ち明ける万里子。哲也もショックではありましたが、万里子を許します。万里子は罪悪感と哲也の愛を受けて泣き崩れます。
翌朝、二人で東京に戻るためにバス停に居ると、そこに繁男が現れます。
バイクで荒々しく愛の表現をします。
揺れる万里子とそれを止める哲也ですが、万里子は繁男を選びました。

その夜、繁男を待つ万里子の下には繁男は現れませんでした。
そして、離縁状が万里子に届きます。

表面上は繁男を好きになったから万里子は不倫したのですが、
繁男が居なかったら、不倫はしなくても、違うきっかけで哲也とは別れたはずです。
何があっても、ひとりで旅に出た時点でこの結末は変えられなかったのです。
最後の猶予は、哲也が一日遅れで追いつくかで、これなら、もしかしたら別れはなかったかもしれませんが、それでも結末を遅らせるだけだったかもしれない位に、この結末は決定でした。

万里子は、今までの自分の肯定を覆す離婚に逡巡していただけだったのです。
もちろん経済的に不足が出ること、仕事を含めた人間関係で離婚を踏みとどまろうとも考ていたでしょうし、だいたいが、離婚そのものが多大なエネルギーが掛かるので、踏み出せなかっただけなのです。

人は惰性という重力がいつも付いて回ります。
私は万里子は今後今以上に幸せになるかはわかりませんが、
不幸になっても後悔はしないように思えました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年10月08日 07:31