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ブログ 今日のいもたつ

「ゆっくり動く」と人生が変わる 小林弘幸 著

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現代人の誰もが少なからず、“急げ”が身についていますが、
私はそれが極端です。
数年前からいくらか気にかけていたことですが、
この本を読んで、“急げはろくな事がない”のが間違いないことを確認です。

『やっぱり』を感じるのと同時に、
『わかっているけどやめられない』を痛感です。

“急げ”は生きる上、特に仕事を進めるにおいての力ですから、
真っ向から否定するわけではありませんが、
自分で“急げ”をコントロールできないのが問題です。
『いつも急げ』になり勝ちです。

この本を読んでいる時こそ、
落ち着いた呼吸をしますが、その時に、
いかに浅い呼吸で過ごしているかに愕然と気づきます。
どうすれば良いものやら。

この本を目に見えるところに置くことからはじめましょうか。

追伸
7/5は「小暑」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小暑」の直接ページはこちら
小暑

【いもたつLife】

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【SPAC演劇 「母よ、父なる国に生きる母よ」 ヤン・クラタ 演出】

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世界一強固な絆で結ばれている、愛し愛されているとされる母娘関係に疑惑を入れて、逆転となる憎悪と支配の関係を成立させて、人の世界の始まりから現在に至るまで続いてきた争いの源を覗く。それが私にとっての「母よ、父なる国に生きる母よ」での体験でした。

太古の昔からという日本語訳と太鼓とアカペラで始まるこの演劇冒頭で私は、映画「2001年宇宙の旅」で類人猿とモノリスが遭遇したシーンを思い起こしました。
時空を超えたシーンで、母娘を引き合いに出して繰り返し同じテーマを語っていることからも哲学的な「2001年宇宙の旅」が重なります。

元々、母が子を宿り産み落とすのは神聖なことです。そしてその絆はけっして切れるものではないし、母が娘を思わない時は片時もありません。
けれどそこに何の疑いもしないで道徳論だけで「そんなのは当たり前」としないのが、「母よ、父なる国に生きる母よ」です。

強固な愛の反作用があるのではないか?
母も所詮娘を支配しているのではないか?
そんな疑問を感じる演出です。そして、愛していることと憎悪の表裏が母娘の間に互いに存在することを確認します。それは、母と息子ではそこまで強くはならない憎悪のような気がします。もちろん、父と娘、父と息子でも同様です。母と娘だから、母にとって娘は自分より後にまた子を産む存在だからという、女同士の負けられない本能があるからのような気がします。
それはおいて置いて、演劇はこの絶対的に思える絆の母と娘さえも憎悪の関係になることを、人が刻んできた歴史の様々なシーンで再現、証明します。
ナチスドイツによるポーランド占領とユダヤ人の殲滅を表すシーンでは、その根本原因のヒトラーが、彼の幼少の頃の父、母との憎悪の反復でないかを示唆します。
現在はかなり解決に至っている黒人差別や先住民への迫害問題の場面でも、個々人による違いの大きさがありました。それも元になるのは、家庭での生育の影響が大きいはずです。
また、エイリアンの登場も子孫を残すことへの言及です。エイリアンと人は子孫を残すということで相容れることができないことから争いになりました。エイリアンは人が憎いから恨みがあるから人類を滅ぼそうとしたのではありません。子孫を残すことの過程で人類と争うことになりました。子孫を残すことができる女性としての定めには、母と娘は仲が良いという優等生な関係は、平時だけなんだということを見せ付けられます。
そして、家父長制度についても強く触れます。私はこれについては、男も女も上手くいっている時だけ機能するもので、本来どちらも(特に女性が)納得しているわけではないと考えています。お互いの都合が良いだけで、お互いの支配の按配でバランスをとっているだけです。

以上の4つのシーンの根底にはどれも、愛すべき母と娘の関係の裏返しの、母が娘を支配する構図、お互いが憎悪を持っているということがあるのではないでしょうか。
この事実を認識することはとても辛いことです。でも突き詰めると人の争いの解決に繋がることでもあるということに気がつきます。この演劇が言いたい最終地点はそこなのだと解釈しました。

太古の昔から始まったこの演劇は、強い歌声とリズム、衣装も無機質な色合いで、時折ユーモラスな演出をはさみますが、全体的には演者から主張を感じました。それが最後は華やかな衣装とハーモニーの歌です。そこには望みはかなうことが織り込まれています。

母と娘という神聖な関係の中に支配や憎悪があり、それが世界中の争いの源だとしたら、解決するのはたやすいはずです。母と娘が喧嘩するのは、ほんの些細なことからと相場は決まっています。そしていつの間にか仲直りします。

ただし厖大な時間の中で世界中のいたる所で何度も、いろいろな形で起きてきた争いがたやすくなくなることは、現実にはあり得ないことかもしれません。けれど、解決できる関係であることを信じるのはとても有益だと思うのです。

本来あらゆる人間関係の中で最も強く清いのが母娘関係なのだから。

【いもたつLife】

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WHYから始めよ! サイモン・シネック著 栗木さつき訳

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企業に大切なのは『理念』であることは誰も知っていることですが、
著者は、“わかってないですよ”と諭します。

人には帰属したい願望があります。
お客さんも、従業員も。
また、日常で何のために生きているかの理由を、
“感じていたい”のだから、それに即した経営は必須です。

企業行動は、
『why』『how』『what』で語られるのが本来なのに、
逆になっていて、それが企業価値(利益)を損ねていることを訴えます。

わかっているけどできてない。ことを訥々と繰り返し語ってくれます。
それはその大事さを軽んじているから、
違うことでの解決を経営者が図ろうとするから、
平易な言葉と、多くの事例で読者の体にしみ込ませるのがこの本です。

【芋日記】

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麦間栽培は抑草に入ります

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抑草にする麦が伸びきってきました。
そろそろ倒す時期です。
一度倒して、8月終わりにもう一度倒す予定です。
それでどこまで抑草できるかですが、
今年は春から稲藁で抑草しているので、かなり効果が期待できます。

【芋日記】

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のぶやんも草取り

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タツマは有機栽培ですから、
草取りを少しでも進めたい日々です。
慣行栽培の農家は除草剤という頭があるので、
そんなにあせって畑で草取りはしませんが、
のぶやんは別です。
暇があれば畑にでます。(慣行栽培ですが)
働き者なので性分なのでしょう。

【芋日記】

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銀河栽培

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今年も一部の畑で土壌改良剤『銀河星』をしようした栽培をしています。
『銀河星』は土中の光合成藻類を育てる土壌改良剤です。
今年は、安納芋と兼六人参芋で試しました。
美味しい干し芋ができることを期待しています。

【芋日記】

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巣立ちました

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毎度のことですが、
ヒバリの卵が孵るのも速いですが、
雛が巣立つのもあっという間です。

最短で成長することで、やられる確率が減るのでしょう。

【芋日記】

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夜の素顔 1958日 吉村公三郎

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戦時中、踊り子として戦地を慰問していた京マチ子が、
戦後の焼け跡の東京で、日本舞踊の師匠につき、
師匠とともに成り上がります。

彼女は師匠を前面に出し、度胸と努力と知恵でのし上がります。
それらが適わないと女そのものを武器に目的に邁進します。

師匠を利用できるところまでで、師匠とは決別、
パトロンを奪いしたたかに、新しい流派を設立、家元に納まります。
飛ぶ鳥を落とす成功に向かっていましたが、
戦時中の恋人が現れるところから危うくなります。
恋人のために、結婚するために、金持ちのパトロンと別れるところからです。

金儲けの才能がない恋人(夫)のダメプロデュースでカネが回らなくなり、
しかも、主人公と同種類の美貌の弟子(若尾文子)が登場、
京マチ子が築いたものを奪おうと虎視眈々です。
さあ、どうなるか・・・?

京マチ子は戦前、極貧の家で12歳の時から客をとらされるという境遇でした。
『(世間を)見返してやる』映画中に何度かでてくるこの言葉通りのこれが、
生きるすべてになっていました。
だからそのためなら“何でもあり”なのです。

師匠を利用することも、なんのためらいもなく色仕掛けをすることも、
パトロンと別れて才覚ない夫を迎えることでさえ『見返してやる』ための選択で、
それが達せられれば、カネに困ることが解っていても良いのです。
カネなんてその後に、
どんなことをしても(倫理がないので)造ってしまうというのが、
意識してない彼女の本心なのです。

しかし京マチ子には三つの間違いがありました。
ひとつは、若尾文子の存在です。
自分と同じ境遇で育った、“何のためらいもなく奪うことができる”
同類の女が現れたこと。
ふたつは、あまりにも今まで走りすぎたために、健康が損なわれていたこと。
三つ目は、『見返す』ことは『自己の破滅』をも優先していることです。健康を害するだけでなく、“見返せば”目的達成ですから、そこには日本舞踊の伝統も何も関係ありません。“見返して”“成功して幸せになる”のは彼女にとって意識している夢でしかないのです。本心は『最大に見返すにはどうすれば良いか』で生きていたのです。

最後は破滅、そして若尾文子が京マチ子を継ぎます。彼女は精神まで継ぐ後継者です。
だからこの物語はまだ続きます。新たに若尾文子が『世間を見返し』どこまで『破滅』するか。
それは実社会の出来事で確認しろということでしょうか。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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真夜中のピアニスト 2005仏 ジャック・オディアール

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主人公は不動産ブローカー、
取立屋、土地ころがしという感じの、少し危ない仕事をしています。
その父も同じような少しヤクザがかった男、
同僚も平気で浮気するという輩、
あまり好ましいメンバーではありません。

28歳の主人公の母は有名(高名)なピアニストでしたが、
10年前に亡くなっています。主人公もそれまでピアノをやっていました。
ふとしたきっかけで、もう一度ピアノで身を立てようと決心します。
ヤクザな仕事とピアノの特訓がはじまります。

主人公は、父親の呪縛から逃れられない、
母親との別れに決着がついていません。
ピアノをやめたのは、父親の意志。
ピアノを捨てきれないのは、母とのつながりが欲しいからです。

主人公の生活は規則正しいピアノのレッスンと、
空き時間にも指と頭で曲を弾くという日々と、
ヤクザな家業と同僚の妻を寝取る、嫌な取引先の女を寝取る、
時に、ピアノ教師をなじるという、
健全と不安の両面が現れる日々になります。
それがある事件をきっかけに変わります。

結果は悲惨ですが、主人公は手に入れることができました。
父の呪縛から独り立ちと、母との別れです。

ピアノがキーなので、指の動きに意図があります。
ピアノのレッスン以外でも指の動きをカメラは追います。
始終練習する指から、女を抱く指まで、
そして、主人公がラスト引き金を引く指、
その後の演奏会での指、
彼の心境を上手く納めていました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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【SPAC演劇 「室内」 クロード・レジ 演出】

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落語と真反対の方法で人の生きる根源に迫る『室内』では、観客は異空間でそれを否が応でも突き詰めることになります。

舞台は闇に近く、音さえも遮断されます。観客は衣擦れの音にまで敏感になり、今から始まる演劇に覚悟を決めることになります。
そしてまさしく闇と沈黙になり、目を凝らすことで認識できる幕開けを迎えます。仄かな動きで始まるこの演劇は、観客がこの空間世界のルール、意識を集中することで感じるという嗜みに気づく頃に動きを見せます。その動きも台詞も、私達が居る世界とはかけ離れたスローなもの、それは敢えて日常を重ねさせないことを意図したものです。

落語では、私達にどれだけイメージを膨らませるかに知恵を絞ります。それとは真反対にこの『室内』では演劇自体を、個々人が自然にイメージしてしまう像、己自身の投影を拒みます。まっさらな状態で、この微妙な役者の動きと穏やかな台詞を身に染み付かせることを促します。
そこに置かれることにより、観客は役者陣の一挙手一投足からこの演劇の本質を見極めざるを得なくなります。

『室内』は人の生き様に迫ります。落語と真反対の手法だと私は感じましたが、落語が粗忽者を通して人の業に迫る目的があるので、真反対の『室内』でその狙いが重なるという妙味も感じました。迫る元の地点が、粗忽者と、少女の死を告げる者という、かけ離れた設定であっても、観客はそこから本質へ考えを巡らせるからです。
最も“生きるとは?”を真っ向から感じること、考え抜く空間が『室内』で、そこに居ることができたことに震えるような喜びを感じる自分がいたことを伝えたいのも本音です。

溺死した少女の死を告げる二人の使者の、老人とよそ者は、少女の死を知らぬ家族に事実を告げることを躊躇します。
二人はそれぞれの視点で家族を観ます。娘の死を知らないで幸せな日常を過ごす家族を観たり、不幸な出来事を告げることで奈落の底に堕ちる家族が観えたり、いつ誰がどこでどうやってこの事実を告げるのが正解かと模索したり、娘を失った事実を知ることになる家族の悲しみを同じように背負うことで、自分を納得させようとしたりと、知らせるという使命からそれを飛び越えた価値観を自分達が請け負い、それがまるで自己の人間性を問うことにつながる価値であるかのごとく認識し、伝えることに逡巡します。
独立したそれぞれの個ということが本来であるのに、そこから離れられない(この場では、少女の死を家族や係わった人達とどれだけ共有することができるかを美徳として、個人の感情はそれに従うことを優先されること)のは、社会に生きることで植えつけられた価値観です。
この二人の使者と、溺死した少女を看取った者達は社会的な使命を果たしただけです。それ以上でもそれ以下でもないのですが、そこから悩みや苦しみが生じますし、亡くなった少女とその家族を慈しむ想いは、家族を知れば知るほどに大きくなります。しかしたとえ個を優先しなくてもそれを感じるのが人間です。
だからその姿を純粋に感じればよいのですが、私はこの劇中常に結論を求めていたことがあります。それは“生きるとはどんなことなのか?”です。

生きるための日常の営みの中で、心から感動することが一年の内に数回あります。生きた充実感を堪能する時です。そしてそれは自分自身にはけっして嘘偽りができない、その自分が幸せだと腑に落ちる程の時です。少しその感覚とは違いますが、冠婚葬祭もそのひとつである場合もあります。
けれど、そんなことさえも生きている常の一部なのかも知れないことをこの劇で感じます。

もちろん今の世の中では生存を生きる目的の第一にすることもないですし、子孫を残すことさえも、先進国に限っては生きる第一義に挙げることは意味を成さない気がします。
自殺以外で自分の生きる期限を知ることはできませんが、年を追うごとに残りの時間を強く意識するようになります。そこで死を少しずつ身近に感じるのですが、やっぱり期限を知らされることはありません。そしてやがて迎える死の間際では後悔するのは明らかです。なぜなら、生きてきて“もっとやれたのに”と誰もが思わずにはいられないのが人ですから。
そうするとこの劇で使者二人は何を憂うのでしょう。
亡くなった少女と、遺された家族の娘に対しての哀れみ、家族の落胆と娘に対してこれからはもう何もしてやれないという取り戻せない家族達の現実を感じること、それらを憂うのではないでしょうか。二人は何も特別なことをしていません。

私は、生きる日々の中で輝いている自分がいる一瞬が生きることの意味かと思っていました。また、子を想う気持ちや親を慕う気持ちを持つこと、また、家族や親戚や友人が一同に会する時、それらが生きる意義という気持ちがありました。
それを否定するわけではありませんが、もっと飾り気なく、死ぬまで生きるのが生きる意味なのではないか。それを考えるのが『室内』という劇場、小宇宙にいた時間の中で導いた、生きる根源に迫った結果でした。

【いもたつLife】

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