いもたつLife
【SPAC演劇】マダム・ボルジア 演出:宮城聰

spacの新作「マダム・ボルジア」のテーマは「恋情の復権」です。
宮城さんの演出ノートに「恋情」は“相手を美化することを伴う愛”で、そして、“相手を美化し、それに照らして自分も相手にふさわしい者になりたい”と解説されています。
マダム・ボルジア(=ルクレツィア)は残酷極まりない人物として描かれていますが、唯一息子のジェンナロだけは命掛けで愛しました。
他の人物に対してはあまりにも冷たく、命までをも軽んじても、ジェンナロだけは別です。実はこれは私はとても共感できます。
流石に他人を殺めることはしないでしょうけれど、唯一ではないけれど、ほんの一握りの人だけを大切に想ってしまう気持ちが解るのです。
個人的に、私自身があまり人付き合いをしないということもその理由の一つではあるかもしれないですが、誰にも彼にも気持ちを注ぐなんてことは不器用で出来ないという感覚です。
ルクレツィアもとても不器用な人(女)であったのではないでしょうか?
ジェンナロが死に向かってしまうと、取り乱し、何でもありでそれに抗います。
その姿からは残酷なイメージは欠片もありませんが、でも劇中でも自分を虐げた男5人を平気で毒殺します。
人は多重人格で、多分私もそうなのでしょう。
そしてルクレツィアはジェンナロなしでは生きていけない人で、幼い頃ジェンナロを手離し、いつか再会できることをただただ願い生き甲斐とし、目の前に現れるともう合わずにはいられません。
そして母と名乗れない境遇が仇になり悲劇になります。
ルクレツィアは、ジェンナロを母殺しにさせてしまったことが無念で仕方なかったけれど、それは宿命でもありました。
ジェンナロを気にかけているルクレツィアとそうでないルクレツィアは明らかに違う人物です。恋情(愛)とはかくも激しい感情であり、それを持つことだけでも幸せなのかもしれません。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】メディアともう一人のわたし 演出:イム・ヒョンテク

ギリシャ悲劇「王女メディア」のメディアは元夫イアソンへの復讐のために我が子二人を自ら手がけてしまいます。
それだけ夫憎し、そして、メディアは残忍だったということは誰でも解るけれど、解ると納得は雲泥の差です。どんなにかイアソンへのあてつけかの想像ができないのに言い張ることではないけれど、およそ私にはどんなことがあっても我が子を手がけることはできません。
でもこの悲劇も多くの芸術家がその芸術家の解釈で演出しています。そして、この作品もその一つですが、少なくとも演出家のイム・ヒョンテクさんは、私と同様に我が子を手がけるメディアの心を読めなかったのでしょう。それを逆手にとっての“イム・ヒョンテク版メディア”でした。
メディアを二人登場させるのがこの作品です。
原作通りの残忍で我が子をも手がけるメディアと、どうしてそんなことができるのか、当然ながらメディアにも葛藤があるはずという、我々に近いメディアです。
二人の女優が折り重なる用にメディアの心情を観客に伝えます。
その伝え方は、メディア二人だけでなく、イアソンも、他の登場人物も、その身体と、舞台袖両側に配置されている楽曲と歌で主に表現されます。
それは、観客の心に訴えるという言葉通りで、数多の台詞では表現できない表現方法です。
素晴らしい楽曲と歌声、そして登場人物に合わせた声色、時にはオーバーアクトの演技もありますが、それも殺し合いの運命にある人々のしかも限られた時間で生きる人の生き様として観ると、その異世界を覗いている感覚になります。
そしてなんといっても二人のメディアは、とても精力的であり、母性の塊であり、ですが、実は私には窺いしれない残虐性があるということで、そんな二面性(多重人格)があるようには見えないけれど、しかし、物語の展開は悲劇を正当化するがごとくに進みます。
我が子を手がけるというあっては行けない行為に悩む姿がもちろんありますし、オーバーアクトはそれを可能にするかのようにも見えました。
韓国の古典芸能の楽曲と歌の要素と、現代の音楽の要素を合わせた音響を受けての身体表現=踊りは狂おしくも見えます。
この劇自体がメディアの人格を訴えているのでしょう。
頭にではなく、どこまでも感情に突き刺さるようなそんな劇でした。
【いもたつLife】
世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集 (著)受刑者 (編集)寮美千子

想像すらしなかった深い闇で虐げられていたことが、犯罪者を産んだ。
これは単に知っていただけのことで、それほどまでのことだったと受刑者たちの詩で痛感します。
ではどうすれば良いか?
この、詩を読むプログラムで受刑者たちは癒され、再犯の確率が低くなることも期待していますし、その効果はあるでしょう。少しでも人らしく変わるきっかけにもなるでしょう。
でも受刑者たちは重い罪を犯してしまっています。
もちろん彼らも苦しいし、被害者の身内は一生癒されないかもしれません。
しかし受刑者は人であるのですから、素晴らしいプログラムです。
でもやはりひっかかるのは、一線を超えてしまったことです。
前述しましたが、受刑者たちのそれまでの環境は、想像すらできない劣悪です。そんな体験が微塵もないのだから口を挟むことはできません。
ただ、負の連鎖はどんなことをしても断ち切らなければならないという、これも当たり前のことを思い、それが本当に難しいということを改めて感じたのも事実です。
自分にできることがあるのかと虚しくもなりました。
「人間」
人間という 生き物が 一番悲しい 生き物です。
追伸
5/21は「小満」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小満」の直接ページはこちら
小満
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マイ・レフト・ライト・フット 演出:ロバート・ソフトリー・ゲイル

映画「マイ・レフト・フット」を舞台上映するというアマチュア劇団の上演稽古の顛末の、ミュージカルです。
原作者・演出家のロバート・ソフトリー・ゲイルさんが脳性麻痺ということで、身体障害者と社会の繋がりを問うのですが、その表現がハチャメチャで明るくて、ブラック・ユーマアありで、そして身障者の自虐ネタありです。
ちょっと引いてしまう表現もありますが、滅茶苦茶の明るさで押し通してきます。
そして、皆、歌が上手くて迫力ありです。もうこの歌を浴びることだけでも満足です。
一人、手話ディレクターの女優さんがいて、ずっと(英語の)手話をしながらの出演で、ここからもこの演劇の意図を知る事が出来ました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇(映画)】 コンゴ裁判 監督:ミロ・ラウ

これも国際関係の構図で、力のあるものが富を享受している現実です。そして、見たくないと見せたくないが重なっている現実でもあり、それは先進国と、恩恵を受けている一握りの当事者の都合の上で成り立っています。
そこに風穴を開けようとしたのが、この映画(演劇)で、なんと、コンゴ戦争を裁判にかけるということを、擬似裁判ではありますが、やってのけた作品です。
紛争に係わった当事者の証言や、戦争の背景になるコンゴのレアメタルを採掘(搾取)している企業も証言台に立ちます。企業のやりたい放題と、そのやりたい放題で犠牲になる人々を押さえつける同じコンゴの武装集団の証言もあれがば、それらを黙認している政府関係者も立たせます。
犠牲者の生々しい証言もあります。住んでいた土地が汚染で不毛になってしまった現地の人たち、虐待により殺害や強姦された生の声です。
実際にそれを追求する人と弁護する人があり、裁判官が調停します。
よく実現できたというのが率直の印象です。
そして500万人とも言われる犠牲者が出た戦争の間接の原因は、私達が手放せないスマートフォンをはじめとする電子機器の急速的な普及です。
私も恩恵を受けていて、知らないところでは悲惨な事が当たり前のように起きているのも問題ですが、もっと深刻なのは、知らされない構造ができていることです。
コンゴは肥沃な土地と、豊富な地下資源に溢れています。その恵みはほんの一部の人が享受していて、大多数は豊かな(金になる)素材が眠っているがために不幸を運命付けられてしまっているといます。
胸が傷みます。
この現実を世に問うことを使命とした造り手を賞賛します。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ふたりの女 演出:宮城聰

舞台は伊豆の精神病棟。登場人物は皆、危ない人達、頭の中はあっちの世界にあってやることは支離滅裂。でも中でもある程度まともなのが、六条という美女で、六条は医者の光一を愛します。でも光一には子供を身篭っている許婚のアオイがいます。
登場人物を観ていると私達との境界線を行ったり来たりしているように見えます。私自身は正常だという認識はありますが、それは危ういことで、流石に精神病棟の患者までとはいかないまでも、でも、彼等が一瞬まともになる時、でもあっちの思考になる時、同じようなことを自分自身もやっているのではないかと実感したりします。
結局は程度問題で、私はいつも完全に正常であるわけはありません。
そんな自分にもある危うさが舞台で喜劇として表現されながら、光一とアオイと六条の三角関係の顛末です。
六条は退院します。アオイは精神を病んでいるわけではありませんが、六条とアオイは同じ境界線をいったり来たりしているように見えます。それに振り回されるのが光一です。
六条の横恋慕でアオイが嫉妬に狂い、光一はそれに悩むという展開です。
私は、アオイと六条は二人で一人ではないかと感じました。
最初は、光一が有能で格好良いものですから、アオイは光一が他の女から言い寄られてその気になることが心配で心配でならなくて、光一が浮気しているという妄想に駆られてしまい、自殺した。六条はアオイが造りだした幻影かと解釈しました。
でももうひとつ解釈しました。
六条は光一が造りだした幻影で、光一はアオイが亡くなったことに責任を感じていて、六条を存在させなければ、光一は自分を救う術がなかったということです。
また自分自身への説得力は薄いですが、六条は存在していて、アオイは光一が造りだした幻影とも取れます。
六条は確かに光一を愛していて、彼の心を得ようとするのですが、そのやり口がかなりエスカレートしています、光一はそんな自分を愛する六条を気にかけながらも、理想のアオイを造り、添い遂げたかったとも思えます。
また、やはり二人とも存在していたとも解釈できます。
要は、光一はじめ皆、不足を埋めようとしているというのがこの劇ではないかと強く感じました。
精神病棟内は不条理がまかり通っていますが、これは現実社会を映していて、その不条理が故に、不足が常にあるのが世の中で、それをどう補おうかと足掻くのがこの「ふたりの女」で繰り広げられていることです。
時に狂ったようにもなりながら、幻影を求めるのは光一だけではありません。
一見喜劇の装いでハチャメチャな冒頭はそれをプロローグでもう示していたように思えます。
そして、光一とアオイと六条の物語を進めながら、要所でのサブストーリーで、失ったモノを得ようとする件があります。でも適わない。
ここが味噌で、結局ここに出てきた人達は全員、喪失を埋められないのです。
真実を語っています。
これがアングラの一つのテーマなのかとも思いました。
そしてその表現方法はあくまで造り手が突っ走っているとう感じ。そして昭和の香りが強くしました。
【いもたつLife】
静岡市美術館 「起点としての80年代」

80年代は、今日の美術につながる重要な動向が生まれた時代で、時代がバブル景気に向けて加速し、消費文化が花開くなか、現代美術の世界でも70年代までのコンセプチュアルで禁欲的な表現から、自由奔放で多様な作品が一気に生まれた。
そういうことで、その80年代を代表とする絵画や彫刻やプラモデルといったら失礼ですが、所謂アートが展示されていました。
芸術家の内面、その時代に感じていたものが表現されているのですが、どれも前衛的というのが印象です。
作家は断層の世代の方が多く、展示を観ていて、これまでの団塊世代の表現や、考えを、覆すということが潜在的にその断層世代の作家たちにあり、それが強い力となり引き金となっているのではないということを強く感じました。
【いもたつLife】
【spac演劇】妖怪の国の与太郎 ジャン・ランベール=ヴィルド、ロレンゾ・マラゲラ 演出

一応筋はあるのですが、設定された制約の中でやりたい放題の喜劇です。
その設定も制約も自由度があるものですから、たくさんのアイデアを出して、面白いものを選びてんこ盛りにした劇でした。
今年一番の馬鹿馬鹿しい死に方をした与太郎が魂を無くしてしまい、それを探すというのが筋で、黄泉の国を彷徨うということなので、色々な妖怪に合います。
黄泉の国ですから制約も緩くとにかく与太郎が魂を探すロードムービーのようです。
馬鹿馬鹿しい死に方とは、夏に口を空けていたらミンミンゼミを飲んでしまったからというもので、与太郎が彷徨い歩く途中で起こる妖怪たちとおやりとりも万事、こんな感じでくだらないギャグの連続でした。
ということなのですが、とにかく美術部は大変だったでしょう。
色々な妖怪の衣装や小道具が次から次へと出てきます。それを7人の俳優がとっかえひっかえで、俳優も着替えだけでも何回やったことでしょう。
馬鹿馬鹿しいこともこれだけ揃えれば立派な出し物にあるなあと感心します。
オチは与太郎が魂をもう探さなくて良いや、のんびりしよう、としたところ、魂が戻る。そう、のんびり生きれば良いよ、ということでした。
妖怪たちの自由自在の様と、なにか悩んでいる与太郎との比較が、結構皮肉で、個人的にはたまには弾けた方が良い生き方ができると痛感しました。
でも面白かったです。
追伸
3/6は「啓蟄」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「啓蟄」の直接ページはこちら
啓蟄
【いもたつLife】
【spac演劇】顕れ 宮城聰 演出

三週連続で、今回は千秋楽の「顕れ」でした。
一回目は、内容を追うのに必死で、二回目は余裕があるかなと思いながらの観劇でしたが、三回目こそ余裕が本当に出てきたという感じでした。
また前二回は正面で舞台近くの席が、今回は袖の高めからの席で、違った角度から、全体を見渡せるのも、俳優さんの動きが全体的に追えてよかったし、新鮮でした。
まあそれにしてもこの「顕れ」、SPAC演劇の集大成の要素が詰まっています。
宮城演出の特徴である、ムーバーとスピーカーがイニイエ女神で、力強いスピーカーに、優麗なムーバーの舞です。
また、4人ずつで登場するマイブイエとウブントゥの台詞は、複数人だからこその声を重ねるこちらもspacならではです。
俳優達の鍛えぬかれた動きは時にパワフル時に壮麗でもあります。
そして、俳優自らの打楽器を中心とした演奏も、また美術も凝っているしで、見どころは付きません。
内容は重たいですが、時折ユーモアが入るところも宮城演出らしいです。
観終わって、もう一回みたい、再演があるかはわからないもで、もうみることは出来ないのは残念としみじみ感じました。
これから出来るかぎりspacの新作は3回は見ようとも決めました。
【いもたつLife】
【spac演劇】顕れ 宮城聰 演出

少し世界史をかじるだけで、今まで人々が多くの過ちを犯してきたことは枚挙に暇がありません。奴隷貿易もその中の一つで、多大なる負の歴史です。
その犠牲になったアフリカの、現地の、奴隷貿易に係わった人達を掘り起すというとてもデリケートな題材を扱う原作の演劇です。
アフリカを搾取した方をテーマにしたのではなく、不本意までも搾取に手を貸してしまった人の陳情がメインとなっています。では誰が陳情するのかというと、国を守るために仕方なく搾取側と友好関係を結んだ国の王や、自分(自国)の利益のために仲間を売った者、奴隷から抜け出すために背徳行為をした者等々の魂が創造主の神イニイエの命で、彼らに無残な一生とされてしまったウブントゥという彷徨える魂の前で語るのです。
劇はそこへ向けて、イニイエがいる世界の舞台設定の説明からはじまり、奴隷貿易によりウブントゥや罪人たち(皆魂です)がどうしているかという黄泉の国で繰り広げられます。
今私はこの現代の日本に生れて暮していますから平和で安住です。命や人権を平気で搾取される時代や場所にいないのですが、それは偶々でしかありません。
人が人を人として扱わない、強い者が弱者を食い物にすることは歴史では珍しくもなんともなく、その時と状況が揃えば、自分が搾取される側であったり、搾取する側で人でなしになっていても不思議ではないでしょう。
イニイエの前に立たされる立場でないのが偶々なのです。
誰もが鬼になるやもしれません。
それほどに人は悪の面があり、良心なんて脆いものです。人は善か悪かと問われれば究極は悪、切羽詰まれば悪魔に魂を売るのが人とも思えます。
この「顕れ」は、それでも人は善であることを謳いあげていました。
原作者も演出家も俳優達も裏方スタッフも全員でそれを信じて造りあげた芸術です。その想いが罪人の陳情が行われる後半からラストにかけてひしひしと伝わってきました。
spacの演劇はいつも唸らされるのですが、「顕れ」もそうで、とても感動し、みせてくれることに本当に感謝したくなるカーテンコールでした。
【いもたつLife】