月別記事

ブログ 今日のいもたつ

銀幕倶楽部の落ちこぼれ

リリーのすべて 2015英/独/米 トム・フーバー

消え行く夫とわかりながら、最期まで尽くした妻の物語です。
夫はトランスジェンダーで、アイナーでありリリー(エディ・レッドメイン)で、自分の中でリリーが大きくなっていくことに悩みます。
妻のゲルダ(アリシア・ヴィカンダー)を愛していて、この人しかいないと、思い込んでいたから。ゲルダを愛しているのに女になっていきます。
女性になるのではなく、女なのに何故体は男なのか、それを受け入れることが、どうしてもできなくなっていきます。そして手術に踏み切るのですが。

今でこそLGBTは市民権を得ていますが、1926年のデンマークでのマイノリティは立場がありませんし、性転換の医療もまだまだで、それを乗り越えようとするリリーの姿ですが、それを受け入れ尽くすゲルダこそがこの映画の主役でした。
あくまでも物語の核は、女性なのに男の体で産まれてしまったリリーの悲劇で、初めて性転換に挑戦した実話ですが、それが成し得たのはゲルダあってで、彼女の尽くす姿に感動です。

リリーの願いを適えることは、アイナーと永遠に別れること喪うことで、それを乗り超えなければ尽くすことはできません。
ゲルダはアイナーを深く愛していたから彼の望みを適えたいと心から、それが彼女の願いにもなったのでしょうけれど、でも苦悩がないわけはありません。

リリーはどんどん女性らしくなりますが、体躯はいつまでも男です。
それと比するようにゲルダは女性らしい体で、どこまでも女性です。
その二人を見ていると、リリーとゲルダが与えられたこの課題はあまりにも厳しいものだと思わずにはいられませんでした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年06月07日 09:11

レディ・プレイヤー1 2018米 スティーヴン・スピルバーグ

手間隙、お金がふんだんに掛かっています。
過去の映画やポップカルチャーに敬意が払われて作られているから、それなりに楽しいです。
ただ物語は平凡でした。その方がこの映画の世界が活かされるのでしょうし、王道ですから。
一匹狼だった主人公が仲間が出来、恋人も出来、そして困難を克服する。また悪はやっぱりしっぺ返し。
先進的な映像でそれが語られます。

自分の居場所を探してゲームに嵌る人もいれば、趣味に興じてそれを磨く人、もちろん映画を見たり読書したりもそうでしょう。
人は自分が心底誇りに思える場を求めます。それが多様になっていることも実感しました。

追伸
6/6は「芒種」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「芒種」の直接ページはこちら
芒種

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年06月06日 09:08

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 2017英 ジョー・ライト

“ウィンストン・チャーチル”もちろん映画の題名通りの英雄です。
彼の首相就任からの数十日の映画で、当時ヨーロッパはほぼドイツに占領、英国も絶対絶命にまで追い詰められて、徹底抗戦か和平交渉かという中でチャーチルは何を考え悩み苦しみどうしていったかに焦点が当てられています。

多分彼がいなければ、彼の決断がなければ歴史は変っていたでしょう。

映画として良く出来ています。チャーチルの人となりや彼の考え、チェンバレン等の他の政治家との駆け引き、王室との対応、妻との信頼関係が数日の流れと一緒に描かれます。

そして何が何でもヒトラーを倒すと国中が鼓舞し逆転する起点でラストになります。

そして、勝者と敗者はあまりにも違いがある事も改めて教えてくれる映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年04月24日 09:06

シェイプ・オブ・ウォーター 2017米 ギレルモ・デル・トロ

180409blogy.jpg

今を憂うメッセージが込められた、大人のファンタジーで、世の中から疎まれがちになってしまう女性と、人間ではない存在が結ばれる愛の物語です。

1962年のアメリカ、政府の機密を扱う研究所が舞台です。
口が聞けない(耳は大丈夫)イライザ(サリー・ホーキンス)はその研究所に清掃員として勤めています。
そこへ、アマゾンの奥地では神と崇められているという半魚人が研究材料として運ばれてきます。イライザはその半魚人に何故か惹かれていきます。

1962年ですから、冷戦の背景が強調されていたり、当時の映画が上映されています。そして、二人の敵となる男ストリックランド(マイケル・シャノン)は当時の勝組みの価値観を持った典型的な男で、もちろん憎まれ役です。

大人のファンタジーなので、暴力と性描写があります。それがあるので、ファンタジーなのですがリアルに愛の話として響きます。
また、イライザが口が聞けない、手話で会話をするのですが、他人はもちろん半魚人ともで、ここは憎い演出で、言葉は当然通じないし、手話でも通じないのでしょうけれど、手話は表情も仕草も伴うし、だから半魚人とも通じるし、実は普段の普通の会話も言葉なんてどうでも良いともとれますし、実際そうです。

ストリックランドは、当時も今も同じ危うい社会情勢が発動した暴力で、二人の純愛を引き裂く、それは世の中の一方的な道理からでもあり、世間の強い妬みからでもあります。

そして、いよいよ押しつぶされるというところで、半魚人は神の力を発します。
二人は海で結ばれます。

世間から押しつぶされてしまう、少し尖った二人が、愛を成就できるという所が味噌のダークな部分に真実が反映された良作でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年04月09日 08:16

スリー・ビルボード 2017英/米 マーティン・マクドナー

180405blogy.jpg

ミステリーかと思いきや、重厚な人間ドラマでした。
主要人物は直情的で短絡、自分の思うがままにしていないと気が済まない奴らなので、ハチャメチャなことが起こりますが、そんな嫌な人物を通しての人間賛歌です。

7ヶ月前に娘を惨殺された母ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、不甲斐ない警察への警鐘を込めて、どでかい看板に警察と署長に対しての抗議の広告を掲載することから物語ははじまります。
この殺人事件を掘り下げるのではなく(事件も展開にもちろん絡みますが)、当事者達を追うドラマです。

主要登場人物がとにかく濃い。ミルドレッドは怖いもの知らずの肝っ玉かあさんで、警察を敵に回しても自己主張を曲げません。
この警察署自体もミルドレッド曰く殺人事件よりも黒人差別に躍起になっていると揶揄されるのですがまさにその通りです。
その署長のウィロビー(ウディ・ハレルソン)も、それらを束ね手綱を引いているのですから相当強かです。また末期がんに冒されていてそれをも世論の味方にし、結局自殺するのですが、それも計算づくプラス自分の心情に従ってのことです(勇気があっても自殺は出来ないかもしれませんが)。
濃い部下ディクソン(サム・ロックウェル)がもう一人のキーパーソンで、とにかく酷い。警察権力を自分の感情処理に利用している、すぐにキレル男です。

この3人が自分の主張を決して曲げないのですから事は収まるどころか、収集がつかなくなっていきます。
そしてそれぞれの思い違いとすれ違いで事件が解決するどころか、怒りの連鎖が起こります。
そんな展開なのですが、ちょっとしたきっかけで(自殺した署長のミルドレッドとディクソンに宛てた手紙)、二人の視点が変わります。
やっていることは相変わらずの短絡で直情的なのですが、ふっと我に帰るそんな雰囲気を醸すようになります。自分の視点だけで観ていたミルドレッドとディクソンがそれだけではなくなるのです。

ラストシークエンスは事件の解決にはならないけれど、少し変ったミルドレッドとディクソンにとってはけじめとなる行為で、避けて通れないことです。
ここに人間の不可思議さと愛らしさが込められていると感じました。

隣に居たらうざくて付き合いたくない連中ですが、人本来の姿のようにも見えました。

追伸
4/5は「清明」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「清明」の直接ページはこちら
清明

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年04月05日 09:10

スチューデント 1988仏 クロード・ピノトー

180402blogy.jpg

ソフィー・マルソーのプロモーションビデオでした。
ソフィー・マルソー綺麗ですね。

観ていて、「イザベル・アジャーニの惑い」が思い浮かびましたが、
あれよりも、ある意味純粋に、ソフィー・マルソーのための彼女をフィルムに納めるためのプロモーションビデオになっているように感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年04月02日 09:10

The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ 2017米 ソフィア・コッポラ

180324blogy.jpg

ドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の「白い肌の異常な夜」のリメイクとは知らずに鑑賞したのですが、無骨な前作とは打って変った演出です。
前作もかなりの良品という印象ですが、こちらも心理サスペンスとしてとても良い出来です。そして映像が綺麗です。
キャストも豪華、マーサ園長がニコール・キッドマン、エドウィナ先生はキルスティン・ダンスト、アリシアはエル・ファリング、そしてマクバニー伍長はコリン・ファレルです。
前作はマクバニーが主役ですが、今作は女性たちが主役です。

毅然として美しい、人として、園長として厳格でありながら、内面には嫉妬の嵐のマーサはやはり怖いです。けれど、彼女の行動は受身で、前作同様に引き金はいつもマクバニーで、彼の憐れさが男視点で痛いです。
マーサとかなり性格が違うエドウィナのマクバニーに恋する態度、恋に憧れる態度、そしてマーサに反抗できない煮え切らない態度、そういう機微が演出でしっかりとしていて、それはマーサのちょっとした仕草も同じで、それが女心をどんな台詞よりもしっかりと描かれていて、女性が観たらもっと色々と感じるのではないかとも思いました。

この二人の対比で、二人とは感性が違うアリシアが居ることで二人が生きてきます。
他の生徒(子役)4人もキャラクター設定が巧みで、子供だけれど女性という面が引き出されていました。

そして問題のマクバニーですが、移民としてアメリカに渡ってきて、生きて行くために傭兵を選んだ男で、アメリカで生き抜く辛さを体験し、抑圧もされてきた男に映ります。
女性に三つ又を掛ける時点で最低なのですが、それに目を瞑ると、何もない所からのスタートはやはりとても大変で、傭兵として戦場で必死に生きることだけを考え、でもその挙句瀕死になり、たまたま園の生徒のエイミーに助けられ、最初は命拾いしたことだけで満足だったのが、傷も癒えてきて、周りの女性たちも好意を持ってくれるようになると、冗長してきます。
これが仇になるわけですが、弱い犬が吼えているようにも見えてしまいます。
結局道を切り開けなかった、でもチャンスはあったのですが。

マーサと比較して強さが違います。
あの強さこそが手に入れるべきモノと思いました。

それは置いておいて、人の心の、特に女性の心のほんのした出来事で揺れる心理劇としてとても良く出来ています。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年03月24日 09:10

羊の木 2017日 吉田大八

180306blogy.jpg

口先で信じているなんて言ってはいけないし、心底信頼している人が周りに居る事がどれだけ幸せか、それを強く感じまた教訓でもあるなと思いました。
それが感想ですが、凄いのは、2時間の尺でよくこれだけのものを纏め上げたという所で、吉田監督の手腕は流石です。

過疎化が進む北陸の架空都市の魚深市の市長から直轄で極秘プロジェクトが職員の月末(錦戸亮)に下ります。それは、仮釈放になる6人の殺人犯を市が受け入れるというものです。最低10年魚深に住み労働することで、刑期を短くされるのです。受刑者にかかる税金負担を軽くすることと地方の過疎化対策を兼ねた実験プロジェクトです。

もちろん一般市民には知らされません。6人の元殺人犯は街に溶け込めるか、また、元殺人犯達と関わる月末はどうなるか、という話です。

6人がとにかく不気味で普通ではない。芸達者揃いということもあり、前半はブラックな笑いが起きますが、過疎化の街ということもあり、映画の印象は決して明るくしていません。
この6人を月末が迎えに行く冒頭で、そのキャラをほぼ完璧に伝えるところから、もうこの映画の上手さに惹き込まれます。

真面目一辺倒ではありますが酒乱でもある福元(水澤信吾)、情事の最中に過って夫を絞殺した天然看護師の太田(優香)、気が弱いシャーマンのような女栗本(市川実日子)、元ヤクザで無鉄砲で強い大野(田中泯)、見るからに悪人の杉山(北村一輝)、純真さの中に隠れた凶暴を持つ宮腰(松田龍平)、これらの人達に、月末の高校の同級生として都会から田舎に帰ってきたばかりの文(木村文乃)が絡み、彼らが強弱がありますが月末と関わりながら物語は進みます。

そしてポイントになるのは街の古くからの言い伝えの“のろろ様”で、年に一度の“のろろ祭り”がありこれがまた不気味な祭りです。そんな宗教儀式に加えて、高齢化問題、過疎化問題、再犯に対する言及と社会問題を絡めながら、月末と文はどうなるかというサスペンスタッチでもあり、6人はそれぞれ居場所を見つかられるか(少しずつ過去が周囲に解っていくので)、となります。

とくに月末は宮腰と友人関係になりながら過去を知っているので、また文と宮腰は付き合うし(もちろん月末は文が好き)、宮腰は心の底では何を考えているかは図りかねるし、月末は宮腰を信頼できるのか、しようとしているだけか、上辺の体裁とりか、という人間ドラマの要素もふんだんに取り込まれています。

そんな大風呂敷を広げ、伏線も張り、でもしっかりと回収してしまう。一本の見応えある作品に仕上がっています。
吉田作品はずれなしです。

追伸
3/6は「啓蟄」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「啓蟄」の直接ページはこちら
啓蟄

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年03月06日 09:10

セブンス・コンチネント 1989墺 ミヒャエル・ハネケ

180210blogy.jpg
造り手からの誘導がない、しかも真実そのものを見せつける、これもミヒャエル・ハネケ監督作品そのものです。

中産階級の一家、夫ゲオルクと妻アンヌ、そしてまだ幼い娘エヴァ、幸せな家族です。ところが、この家族は現世に見切りをつける決意をします。
セブンス・コンチネント=第七の大陸、彼らにとって生きる場所は、その地球上には存在しない場所だった、そのためにとった行動は。

3部作で構成されています。
第一章では、まだ現世にとどまる一家の日常、それが第二章で変化を告げます。この世にとどまれなくなる家族です。
その理由は推しはかるしかないのですが、このままでの自分の未来が観えたことへの絶望という、私達も感じてしまうことを大きく受け入れてしまった家族ではないかと感じました。ではだからと言って、この世に見切りを付けるかと言えば、まずそんな人はいません。けれど、現実にこの家族は存在していました。
そして最後の章ではそれを実行に移す3人です。

一貫して3人の行為をスクリーンに映します。
その方法は、ただただその行為で、行為として現れる前段階の彼らの心は、その流れは、我々に委ねられます。

彼らのとった旅立つ前の行動はあっと驚く行為でした。
物質に溢れた現代社会で生きる上で手にした全てのもの、必要なモノから単に欲しかったモノ、なんとなく手にしたモノ、現世を生きる上でなくてはならないモノまでのすべてを自分たちから切り離すという行為で、それは破壊という行動で現れます。
そして自らの肉体も破壊します。

一貫して3人の行動を、あたかも隣で起こっている臨場感でスクリーンに映します。
凄味がある映像です。

人の奥底にある、自分では認めたくはない気持ちや動機や心を抉り出し、それを目の当たりにする。ミヒャエル・ハネケという人はそれをやります。しかもそれを虚構ではなく、実際に起きたら間違いなく、人はこうなるという真実として、映像で語ります。
目をそむけたくなりながらも、自分の心に染み透ってきてしまいます。
この映画もそれそのものでした。

何故あんなことをしたかは、解りません。絶対自分では行わないだろうけれど、一家の心の機微は痛感してしまいます。
怖ろしい作品です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年02月10日 09:13

黄金のアデーレ 名画の帰還 2015米/英 サイモン・ケーティス

180129blogy.jpg

ユダヤ人であるがために、第二次世界大戦時に、祖国からアメリカへ逃れざるをえなかったマリア(ヘレン・ミレン)、その一族は上流階級だったがために所有していた数々の美術品をナチに没収されました。

翻って現代(1998年)、マリアの姉の死をきっかけに、マリアは今生存している自分が、一族(マリア)が所有権を持つ美術品の返還を求めることに決めまず。その中には、オーストリアのモナリザ「黄金のアデーレ」が含まれています。
合法的にはマリアに所有権がある“黄金のアデーレを含めた数々の美術品”ですが、国の至宝をオーストリア政府は手離すわけはありません。

マリアはダメ元で親友の息子の弁護士ランディ(ライアン・レイノルズ)に返還されるかを打診します。
ランディも懐疑的にこの案件に携わるのですが。

オーストリアが国を挙げて負の遺産に挑む事になるマリアとランディです。
いくら分があるとはいえ、相手は一国ですから一筋縄にはいかないと言うものではない位途方もない道のりです。
オーストリア政府には却下され、一度目の絶望ですが、ランディは道を探します。
なんとかアメリカの司法の下へ、この案件を挙げるのです。けれど国際問題だから、この裁判が取り上がれるかは解りません、
けれどなんとか土俵に上がりますが、これが第一歩です。
オーストリア政府との熾烈な戦いが続きます。
心が折れるマリア、それを受けても踏ん張るランディです。
結論はウィーンの評議会へとなります。そこで最後、二人は黄金のアデーレを勝ちとります。

ナチが略奪した美術品の返還という大きな流れを、マリア一族の個に焦点を当てていますが、映画はマリアのその略奪された当時の映像を再現して、大戦はなんだったのか、同じ国にいながらユダヤ人とそうでない民族の虐げられた姿ということと共に、元オーストリア人であったマリアとランディのアイデンティティにまで映画は踏み込みます。

マリアは姉の死がきっかけで、ランディも金儲けがきっかけで、この途方も無い「黄金のアデーレ」の返還を目指すのですが、その動機は変っていきます(これはオーストリア政府に自分は全く悪く無い姿勢に二人がそれを崩そうという動機が働いたのですが)。

個人が一国を相手にするのですから、その逆風は想像できる最悪が襲って来たでしょう。
でもそれを乗り越えた二人の実話です。

二人の成長物語です。
ランディは、この案件は金にあるから始まり、でもマリアのためをおもい、その後、オーストラリア政府が示す理不尽に怒り、それを超えて戦時には自分の肉親もオーストリアの地で果てた事を受け止めて、自分がアメリカ人でありでもオーストリア人でもあることに自覚を持ちます。

マリアも、オーストリアに足を踏み入れることを、一生しないと決めていました。
けれど
足を踏み入れます。もちろん「黄金のアデーレ」を取り戻すためですが、マリアにとつては、そこにいたら死ぬ場所でした。二度と生きたくない地です。
でもマリアも自分を自覚します。
オーストリアが祖国だったことを。でも懐かしさはどうでしょうか?

いまだ残りの戦争の負を、大きな現実を前面に出して、裏ににはその悲劇が起こった実際を挟んで国同士の問題と個の問題には差がないことを訴えます。

マリアとランディは必死になって取り戻しました。
死に物狂いでなければできないでしょう。
そしてこれと同じ案件はたくさんあると言います。

それは彼らの様なエネルギーが無い限り取り戻すことは出来ない。
それをもささやいている映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2018年01月29日 08:41