銀幕倶楽部の落ちこぼれ
別離 201イラン アスガー・ファルハディ

一組の夫婦が離婚調停している場面からこの映画は始まります。
イラン国外への移住を希望する妻、
11歳になる娘の将来を危惧しての決断です。
当初は夫も賛同していましたが、父がアルツハイマーになり、
介護が必然の状況になることで、妻に対してその約束を反故にするところから
持ち上がった離婚騒動です。
妻は実家へ、介護は夫と娘と、ヘルパーとなります。
ここから夫婦も含めた泥試合が始まります。
イラン社会の現状を上手に現しながら、
緻密な脚本は観客を惹き込みます。
展開上不可欠の二つの嘘の設定も見事なら、
一人ひとりの自己を守る台詞も絶妙です。
日常の延長で起こった出来事が、
悪い方向へ転がり、サスペンスも絡んだ極上の人間劇です。
夫婦は中流家庭です。
介護に雇われたヘルパーは貧困家庭です。
バスを乗り継ぎ幼い娘を連れて、身重の体で働きます。
彼女の夫は短気でヤクザまがい、挙句の果てに失業中です。
日銭が必要な貧困、妊婦とヤクザまがいという背後設定を踏まえた上で、
事件が起こります。
彼女が無断で介護を抜け出し、その隙に父は危うい身になります。
それが夫と娘に発覚、彼女は解雇、それだけにとどまらす、
夫と女がいざこざになり、夫が女を突き飛ばし流産という事件に発展します。
イランでは数ヶ月の胎児が流れると殺人罪になるために、
裁判になります。
争点は、夫が女の妊娠を知っていたか。
ここからサスペンスの色合いが濃くなります。
夫は本当に妊婦であるという認識がなかったのか?
逆に女の流産は、夫の過失が原因なのか、どうもそれ自体も怪しくなります。
この映画の秀逸さは、その表面的な裁判の争いの奥にある、
当事者二人に纏わる人間関係の今までの積み重ねを、
裁判の進行に重ねている所と、
夫が主張する安易に罪を認める行為の生きる尊厳の放棄への警鐘です。
金で解決をしようとする妻と、どこまでも折り合いません。
妻の行為は不安を払拭することだけに囚われています。
けれど、安心とそれを速やかに手に入れられる時間を買う行為を、
否定できません。
ただ、夫は尊厳を捨てられないのです。頑なに。
そこまで頑なになるのは、娘に折れる父親像を示すことが
二人のこれからの一生に埋められない溝を残すことになるからです。
そうなってしまうのは、
既に夫妻が別れの真っ只中にいる、これまでの関係からです。
娘はもうさんざん夫(妻も)が不審なのです。
ふたつの嘘にひとつは、夫です。
妊娠を知っていた事実です。
尊厳を守りたい夫の態度はこの嘘がある限り、娘は不審をぬぐえません。
けれど、裁判の進行を考えると、これの露呈は決定的な不利になります。
それを設けているこの台本はとても残酷です。
もうひとつの嘘は女です。
夫のいざこざの前に既に流産は決定的だったことです。
この嘘ももちろん裁判で決定的に不利です。
この背景にはヤクザな夫が絡んでいます。
イランの格差と社会状況を見ます。
話はそれますが、
女が介護の父を触ることを躊躇するシーンがあります。
それらを含めて、イスラム教を体感させるシーンが多く出てきます。
結局女は、夫の過失をコーランに誓う条件で、金を受け取ることができませんでした。
これらもこの映画の特色です。
イランのありのままを見るようなのです。
この映画では誰も勝ちになりませんでした。
夫婦は、別れを強化しただけです。
娘はラスト、離婚が決まった両親のどちらの元につくかの選択を求められます。
それ自体もだれも勝たない証ですが、
娘は全神経を傾けた日々で、その結果がこころの傷と両親の離婚です。
(私は、娘と両親との別れがこの題名にかかっていると推測しました)
そしてヘルパーの夫婦も勝つことなく終わります。
この夫婦の娘も主人公夫婦の娘同様の傷を負いました。
日常の延長であることがこのシナリオの怖さです。
老人問題、経済格差、宗教を盾にしたエゴの放出、
不安な社会から逃走したいという動機からの妻の行動、
豊かになるごとに大きくなる普遍の問題を語る作品です。
それがたまたまイランであっただけです。
罵り合う印象が強いのですが、
家族が家族でいることを渇望している裏返しのようにも思えました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
桃さんのしあわせ 2011中/香 アン・ホイ

桃(タオ)さんは孤児でした。
13歳から60年間ある家庭の家政婦でした。
その桃さんが脳溢血で倒れました。
その時は勤めていた家庭は、息子ほどの年齢の男だけでした。
男は桃さんを看取りました。
この映画は冒頭、桃さんが60年間どんなことをしてきたかを匂わせます。
そして多分1年ほどで桃さんは亡くなるのですが、
その1年ほどの2時間で、60年間の桃さんの人生を受け止められる構成です。
なにより素晴らしいのは、息子同様に育った男です。
最後の時間、献身を尽くします。
尽くされた桃さんはこのために生まれてきたのでしょう。
もちろん暇な男ではありません。お金持ちのようですが。
現在の社会で人のために時間を使うことは、とても尊いことです。
実の両親でも、どこまで時間を使うことに心するでしょうか。
終わりがわからないから、死という瞬間がいつかわからないから、
だから、後回しにする。それは間違いではないでしょう。
でも後の祭りをいつも体験してきました。
この物語はそんな理屈はありません。
病に倒れたから、献身する。
そんなシンプルな行為です。
心が洗われる映画です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ある海辺の詩人 2011仏/伊 アンドレア・セグレ

小さなヴェニスと呼ばれる、小さな猟師町(島)キオッジャが主役です。
そこにあるオステリアが中国資本になり、
主人公の中国人女性が店を切り盛りするところから物語は始まります。
元の常連が相変わらず集う店で、主人公はカタコトのイタリア語で頑張ります。
彼女には幼い息子がいて、故郷に仕送りしています。
店には気のあう者同士が集まります。(主に高齢者)
落語の浮世床と重なります。
一人の『詩人』と呼ばれる客と仲が良くなった主人公は、
『詩人』とのやりとりが楽しみになります。
けれど、世間体からそれを続けることもならず、
そして、彼との別れが訪れるというお話です。
物語は大きなドラマなく進み終わります。
庶民が生きていくところを見せるだけです。
ただ、『詩人』も異国の人でした。
遠い中国から来たばかりの主人公、
近いユーゴスラビアから来て何十年も島にいる『詩人』
二人にはほんの少しの接点があり、そこから親しくなります。
愛するには決して進まない、相手を想う気持ちは、
さびしくも気丈にいきることを決めている主人公への声援です。
劇中、屈原の詩の引用か、水辺にロウソクを灯すシーンが出ます。
そしてラストにつながります。
幻想的な炎と大きな火、主人公の心の変遷でしょうか。
素朴な人たちが、純朴ではないこと、
それは民族間の隔たりもあってのこと、
でもキオッジャという小さな街は海とともに
ずっと昔からこれからも島の誰にも優しいこと。
それをカメラが伝えます。
起伏がないところから、
こちらに問いを投げかける映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
木靴の樹 1978伊 エルマンノ・オルミ

19世紀後半の北イタリアの小作農の生活を、
タイムスリップして覗き見たような映画です。
脚本も演出もなく、
貧しい4家族が生活している姿を切り取ったドキュメンタリーのような映像が流されます。
その世界は当時の農業そのものを再現しています。
今ほど収穫が約束されていない農業と、
牛と馬とあとは人手でなにもかも行う重労働、
あまりにもリアルな鳥や豚の解体、
そのどれもが演技でも演出でもなく自然の振る舞いです。
冒頭から一時間あまりは、そんな一年間の生きるための農作業を中心に、
祈りの生活の様子や子供の成長による変化、
新しい命の誕生による変化を挿入します。
家畜と人力による前時代の過酷だった農業の現実は、
家族と隣人とが力を合わせてやっと食いつなぐ糧を手にできるというものです。
そこは封建世界末期で、
生かさず殺さずから逃れられない社会の仕組みに組み込まれた農民の姿です。
働けど働けど2/3の徴税の元では、ろくな貯えなどできません。
でも、そんな苦しい毎日の中でも時折、楽しい出来事=喜びがあります。
後半からはそんな非日常も見せてくれます。
(たぶん)一年に一度のお祭り、そこでは食べ放題、飲み放題です。
それ以外に、時折訪れる商人の姿もあります。
商人も、農民たちには待ちわびた存在です。
パリからのハイカラな衣装を積んだその荷は、彼らにとっては垂涎の的です。
けれど、奢った見方ですが、祭りも商人の登場も、
爪に火を点した貯えすらも奪う行事と見えてしまいます。
たとえそうであっても彼らの精神の拠り所です。信仰と共に。
他にもちょっとしたエピソードを見せます。
金貨を拾い夢心地になる農夫、それを無くしてしまうところが彼らしく、閉塞を見ます。
工夫を重ねた新しい技術の農作業で、他の家族を少しでも出し抜きたい姿、
地主から借りている牛が病気(その家族の死活問題)になり、祈りで復活するシーン、
孝行息子が遠い道のりで学校に通う中で
木靴が壊れるエピソード(これが結末につながります)、
4家族の中の一家族の年頃の娘と村の青年との結婚、
そして新婚夫婦がミラノ(都会)にいくシークエンス、そしてそれは、
生活に糧のために養子を貰い受けるという現実。
後半もゆったりした流れは変わりませんが、
年月が経つことで人が行う慣習を映します。
ミラノのくだりでは、これから崩れていく封建時代の予兆が窺えます。
そして、木靴のための樹を切り落とした農家に罰則を科せられるラストに入り、
この物語は終わります。
絶望を宣告されたこの一家族は、一頭の馬にささやかな家財道具を乗せて、
行くあてなく彷徨いの途につきます。
ほとんどの映画の方程式から離れた、ただただ一時代を再現した映像に、
観客は己に潜む感覚を重ねてこの物語を感じ取ります。
そこには農民たちと一緒になって人が生きる苦を体感します。
苦の中の喜びを重ねようとします。
あまりにも不条理に怒りを持つというよりも
受け入れなければならない現実を受け止めようとします。
絶望に落とされた一家族の姿でこの映画が終わることが告げられます。
そこで改めて、彼らはどうするのかと、映画の世界と離れてそれを気にかけます。
その後、この家族はどうしようもないということを悟ります。
そして、これらがこの時代の未来=現在を造ったのだと感じます。
この映画も、抱えきれない、答えを出し切れない主題を私に投げかけました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
夜の素顔 1958日 吉村公三郎

戦時中、踊り子として戦地を慰問していた京マチ子が、
戦後の焼け跡の東京で、日本舞踊の師匠につき、
師匠とともに成り上がります。
彼女は師匠を前面に出し、度胸と努力と知恵でのし上がります。
それらが適わないと女そのものを武器に目的に邁進します。
師匠を利用できるところまでで、師匠とは決別、
パトロンを奪いしたたかに、新しい流派を設立、家元に納まります。
飛ぶ鳥を落とす成功に向かっていましたが、
戦時中の恋人が現れるところから危うくなります。
恋人のために、結婚するために、金持ちのパトロンと別れるところからです。
金儲けの才能がない恋人(夫)のダメプロデュースでカネが回らなくなり、
しかも、主人公と同種類の美貌の弟子(若尾文子)が登場、
京マチ子が築いたものを奪おうと虎視眈々です。
さあ、どうなるか・・・?
京マチ子は戦前、極貧の家で12歳の時から客をとらされるという境遇でした。
『(世間を)見返してやる』映画中に何度かでてくるこの言葉通りのこれが、
生きるすべてになっていました。
だからそのためなら“何でもあり”なのです。
師匠を利用することも、なんのためらいもなく色仕掛けをすることも、
パトロンと別れて才覚ない夫を迎えることでさえ『見返してやる』ための選択で、
それが達せられれば、カネに困ることが解っていても良いのです。
カネなんてその後に、
どんなことをしても(倫理がないので)造ってしまうというのが、
意識してない彼女の本心なのです。
しかし京マチ子には三つの間違いがありました。
ひとつは、若尾文子の存在です。
自分と同じ境遇で育った、“何のためらいもなく奪うことができる”
同類の女が現れたこと。
ふたつは、あまりにも今まで走りすぎたために、健康が損なわれていたこと。
三つ目は、『見返す』ことは『自己の破滅』をも優先していることです。健康を害するだけでなく、“見返せば”目的達成ですから、そこには日本舞踊の伝統も何も関係ありません。“見返して”“成功して幸せになる”のは彼女にとって意識している夢でしかないのです。本心は『最大に見返すにはどうすれば良いか』で生きていたのです。
最後は破滅、そして若尾文子が京マチ子を継ぎます。彼女は精神まで継ぐ後継者です。
だからこの物語はまだ続きます。新たに若尾文子が『世間を見返し』どこまで『破滅』するか。
それは実社会の出来事で確認しろということでしょうか。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
真夜中のピアニスト 2005仏 ジャック・オディアール

主人公は不動産ブローカー、
取立屋、土地ころがしという感じの、少し危ない仕事をしています。
その父も同じような少しヤクザがかった男、
同僚も平気で浮気するという輩、
あまり好ましいメンバーではありません。
28歳の主人公の母は有名(高名)なピアニストでしたが、
10年前に亡くなっています。主人公もそれまでピアノをやっていました。
ふとしたきっかけで、もう一度ピアノで身を立てようと決心します。
ヤクザな仕事とピアノの特訓がはじまります。
主人公は、父親の呪縛から逃れられない、
母親との別れに決着がついていません。
ピアノをやめたのは、父親の意志。
ピアノを捨てきれないのは、母とのつながりが欲しいからです。
主人公の生活は規則正しいピアノのレッスンと、
空き時間にも指と頭で曲を弾くという日々と、
ヤクザな家業と同僚の妻を寝取る、嫌な取引先の女を寝取る、
時に、ピアノ教師をなじるという、
健全と不安の両面が現れる日々になります。
それがある事件をきっかけに変わります。
結果は悲惨ですが、主人公は手に入れることができました。
父の呪縛から独り立ちと、母との別れです。
ピアノがキーなので、指の動きに意図があります。
ピアノのレッスン以外でも指の動きをカメラは追います。
始終練習する指から、女を抱く指まで、
そして、主人公がラスト引き金を引く指、
その後の演奏会での指、
彼の心境を上手く納めていました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
預言者 2009仏 ジャック・オディアール

19歳で刑務所に入った男が主人公です。
刑期は6年、その時間に成長していくという物語です。
この刑務所、日本の常識でとらえてはいけません。
酒、タバコはもちろん、携帯電話からテレビ、
刑務所内で成りあがれればの話ですが、
個室でそれらが楽しめます。
それどころか、女に麻薬まで、手に入ります。
そして模範生になれば外出もできます。
繰り返しますが、刑務所内を牛耳っている組織のトップの待遇です。
それと大事なことを付け足します。
所内での殺人もありの世界です。
主人公は入所早々に組織から殺人を強要されます。
殺人を行わなければ、組織から彼が殺されます。
主人公がその任務を決行するのが、冒頭からの一区切りですが、
このシーンが凄惨でリアルです。
彼の6年間の始まりです。
任務に応えた彼はこれをきっかけに地位を築いていきます。
無知な青年に教養と、暴力と、無慈悲な心が育ちます。
組織は一党独裁ですが、拮抗しようとする勢力があります。
彼はそれらを渡り歩き、最終目標は組織のトップを落とすことです。
冒頭からの暴力シーンから目が離せなくなります。
そして主人公の成長、これが真っ当な面と真っ当でない面を含む成長で、
素直に感情移入はできません。
それと腐敗の社会を誇張したようなシーンも多く、
映画にノルという感覚ではなく鑑賞です。
展開は読めますが、演出は骨太です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
河内カルメン 1966日 鈴木清順

貧しい田舎の女子高生が、女を武器に逞しく行き抜きます。
愛憎劇ですが、ドロドロしたシーンはなしです。
気風が良い主人公、テンポ良く進む展開とシリアスな内容ながらコメディタッチで、
鈴木清淳らしさを楽しめる映画です。
彼女は男で苦労するので、ロクでもない男が次々と登場します。
でもそれは彼女の魅力=女としてと、生き抜く力強さ=故のものです。
ひとり、彼女の同士のような男がいますが、彼は彼女と同じ覚悟があるから、
彼女と同士の関係が築けます。
彼女は、男との別れを繰り返します。
別れが彼女を育てます。
彼女は挫折はありますが、立ち止まりません。
どんな立場でも尽くそうとします。
健気で突っ張っています。
そんな魅力ある女性像を、鈴木清淳は描きたかったのでしょう。
そして主演の野川由美子がそれに応えています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
フラガール 2006日 李相日

人間は、いついてしまうと積極的に抜けられないものです。
喰えなくなるという、足元に火がつくまでは、どっぷりとつかってます。
足元に火がついて、もうだめだろうなと解っていても、
“山(炭鉱)の人間はこういうもんだ”
“三代前からここで一生働くのがあたりまえ”
等という頭の理屈で、ダメを迎えることを正当化しますが、
自分の知らない場所に行くのが怖いだけで、
これ俺もやってるな。という教訓映画でした。
明治時代に国策として石炭の増産のために各地で炭鉱町ができた頃、
フラガールの曽祖父母にあたる人達が炭鉱に集まってきたのでしょう。
炭鉱町の周辺の農家が田んぼよりも儲かることを当て込んでです。
多分その時も今回と同じように、
田んぼをやっていた方が良いというのが多数派で、
一部の人が先行利益を得たと思います。
そして田んぼよりも炭鉱の方が良いと皆が気付き、
こぞって炭鉱町が栄えました。
その賞味期限が切れただけなのに、
田んぼが炭鉱になっただけなのに、
頭と行動を制約させてしまうのが人間です。
だから、あの人はなんであんな必要がないことをやっているのだろう。
ということは大事で、
一見必要がないことは必要がなく終わればそれでよくて、
自分がどっぷりと浸かっているところから半歩くらいは足をだしておきたい所です。
それがなかなか出来ないのですが。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
秋のソナタ 1978米 イングマール・ベルイマン

ほぼ4名の人物がひと部屋内で繰り広げられる、
愛憎劇、復讐劇です。
母は名声を得た芸術家です。
しかし幼い娘二人と夫を捨てた過去があります。
主人公は長女、母からの愛情が欲しくても受けられなかつた彼女が、
母を許そうと、7年ぶりに母と合う設定をしましたが、
赦すことができず、母との会話で自己を抑制できず修羅場になります。
もうひとりの娘、次女は脳性麻痺で、長女が育てています。
母にとって次女は、負の遺産です。
長女にとっては、母が犯した罪の象徴が脳性麻痺の妹で、
施設に入れておきたい母の欲望を逆なでするために、
引き取り育てています。
でも長女のその感情は封印されています。
長女の夫が4人目の人物です。
この物語では、母と娘が憎しみ合う愛憎劇で、
娘が母を相手にした復習劇です。
その二人の心情の機微を補足するための役割です。
娘(長女)は芸術家として、女として偉大な母に憧れていました。
いつも、いつも。
しかし、その裏返しの仕打ちしか受けられませんでした。
母は、愛することを知らない、できない女であり妻であり、母でした。
その悲劇が、露になる一日の物語です。
母と娘の痛い罵り合いの応酬です。
次女が時折発作で呻きます。
母を制するように。
人が持つ本性というか、
自己を生かしておくために必須の貯めこんでいた感情が、
今まで生きてきたことの清算のように、暴発します。
お互いを赦すという名目で。
こんなにも人は愛情を必要とするのかというような描写です。
愛情が必要だから、得られない代償が憎しみに変わり、
それが生きる支えになることを、
イングマール・ベルイマン監督は、
赤裸々に、そして、憎むべき相手に対して、
最も痛烈な言葉で相手を撃つという表現です。
すごい映画でした。
母はイングリッド・バーグマン、最後の映画です。
娘はリヴ・ウルマン、
二人とも熱演でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】