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ブログ 今日のいもたつ

フラガール 2006日 李相日

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人間は、いついてしまうと積極的に抜けられないものです。
喰えなくなるという、足元に火がつくまでは、どっぷりとつかってます。
足元に火がついて、もうだめだろうなと解っていても、
“山(炭鉱)の人間はこういうもんだ”
“三代前からここで一生働くのがあたりまえ”
等という頭の理屈で、ダメを迎えることを正当化しますが、
自分の知らない場所に行くのが怖いだけで、
これ俺もやってるな。という教訓映画でした。

明治時代に国策として石炭の増産のために各地で炭鉱町ができた頃、
フラガールの曽祖父母にあたる人達が炭鉱に集まってきたのでしょう。
炭鉱町の周辺の農家が田んぼよりも儲かることを当て込んでです。
多分その時も今回と同じように、
田んぼをやっていた方が良いというのが多数派で、
一部の人が先行利益を得たと思います。

そして田んぼよりも炭鉱の方が良いと皆が気付き、
こぞって炭鉱町が栄えました。
その賞味期限が切れただけなのに、
田んぼが炭鉱になっただけなのに、
頭と行動を制約させてしまうのが人間です。

だから、あの人はなんであんな必要がないことをやっているのだろう。
ということは大事で、
一見必要がないことは必要がなく終わればそれでよくて、
自分がどっぷりと浸かっているところから半歩くらいは足をだしておきたい所です。
それがなかなか出来ないのですが。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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ポリシネルでござる 【SPAC演劇】

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演出・出演 エステル・シャルリエ、ロシュアルド・コルネ
製作 ラ・パンデュ

フランスの人形劇団ラ・パンデュの人形劇で、
主役はポリシネルというどちらかというとアンチヒーローで、
彼はイタリアで生まれたといわれています。

人形劇ですから子供達も多く観劇していましたが、
子供達が憧れるヒーローではありません。
ハチャメチャで意地悪、暴力ありの内容ですが、
動きがコミカルかつ大胆、観客に対してあっと驚くいたずらもあり、
笑いが絶えない一時間でした。

二人での劇で、一人は幕の中で人形を操り、
もう一人は時には人形とのやりとり、時には人形を遣う役割です。
二人が人形を遣う時間は圧巻で、
スピーディあり激しい動きあり、こちらが追えないとみるやスローモーションありです。

観客を引き込み参加するように誘導するところも上手く、
乗せられます。

劇の内容は結構辛辣、
ポリシネルの、行き過ぎたいたずらでは済ませれない行為は罰せられることなく、
しかもそれを継承するミニポリシネルの誕生で幕になります。
フィクションで片付けられない、妙に的を得ていて
苦笑いで終わります。

【いもたつLife】

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今年も見つけました

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畑の草取りをしていると、
ヒバリの動きがおかしいので、
もしかしたらと、よ~く探してみると、
巣がありました。
卵が3つ。
本当に上手く隠してあります。

時季からすると、そろそろ羽化する頃です。

【芋日記】

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秋のソナタ 1978米 イングマール・ベルイマン

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ほぼ4名の人物がひと部屋内で繰り広げられる、
愛憎劇、復讐劇です。

母は名声を得た芸術家です。
しかし幼い娘二人と夫を捨てた過去があります。
主人公は長女、母からの愛情が欲しくても受けられなかつた彼女が、
母を許そうと、7年ぶりに母と合う設定をしましたが、
赦すことができず、母との会話で自己を抑制できず修羅場になります。

もうひとりの娘、次女は脳性麻痺で、長女が育てています。
母にとって次女は、負の遺産です。
長女にとっては、母が犯した罪の象徴が脳性麻痺の妹で、
施設に入れておきたい母の欲望を逆なでするために、
引き取り育てています。
でも長女のその感情は封印されています。

長女の夫が4人目の人物です。
この物語では、母と娘が憎しみ合う愛憎劇で、
娘が母を相手にした復習劇です。
その二人の心情の機微を補足するための役割です。

娘(長女)は芸術家として、女として偉大な母に憧れていました。
いつも、いつも。
しかし、その裏返しの仕打ちしか受けられませんでした。
母は、愛することを知らない、できない女であり妻であり、母でした。
その悲劇が、露になる一日の物語です。

母と娘の痛い罵り合いの応酬です。
次女が時折発作で呻きます。
母を制するように。

人が持つ本性というか、
自己を生かしておくために必須の貯めこんでいた感情が、
今まで生きてきたことの清算のように、暴発します。
お互いを赦すという名目で。

こんなにも人は愛情を必要とするのかというような描写です。
愛情が必要だから、得られない代償が憎しみに変わり、
それが生きる支えになることを、
イングマール・ベルイマン監督は、
赤裸々に、そして、憎むべき相手に対して、
最も痛烈な言葉で相手を撃つという表現です。
すごい映画でした。

母はイングリッド・バーグマン、最後の映画です。
娘はリヴ・ウルマン、
二人とも熱演でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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先が見えてきました

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ほしいも農家用語に「先が見えた」があります。
有機農園の定植も大分進み、先が見えてきました。
5月下旬から6月中旬が干し芋産地の定植の適期です。

今年は予定通りに行きそうです。

【芋日記】

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麦間栽培プラスEM農法

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進化させた麦間栽培を試しています。

いつもの通りサツマイモの畝(うね)間に麦を蒔き、
伸びたら倒して抑草にしますが、
種蒔きの時点で冬に干し場で使用していた稲藁と、
この畑で育てていた麦藁を畝間に敷き詰めました。

それに加えてEMぼかし肥料も畝間の鋤き込み、
抑草効果を試しています。

EMは嫌気を好むので、
藁を敷くことでそれに少しでも近い条件にしています。

今のところ、麦敷きもEM菌もある程度の効果が確認できています。

【芋日記】

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有機栽培プラスEM農法

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EMとは有用微生物群です。
EMぼかし肥料を畑に入れることにより、
サツマイモが有機肥料を吸収しやすくなります。
それ以外に、抑草も期待できます。

EMは嫌気で活発になるので、
EMぼかし肥料を入れて、ビニールで覆っています。

ビニールを剥がしても、抑草ができるか、
それくらいの効果があるのかを試しています。

追伸
6/5は「芒種」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「芒種」の直接ページはこちら
芒種

【芋日記】

日時: |

麦間栽培の草取り

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抑草と線虫予防効果の麦間栽培ですが、
抑草に関しては、麦が伸びるまでは除草作業が必要です。

サツマイモ畝(うね)の間に麦がありますが、
その麦を畝は除草が必要です。
麦が伸びれば、それを倒して草を抑えます。

【芋日記】

日時: |

伸びる時季

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畑回りに、緑肥植物や麦を蒔いている畑があります。
畑内の生態系を多様化させるのが目的で、
病害虫対策の一環です。

この畑では昨秋にえん麦を蒔いておきました。
急に伸びて穂を付けました。
ほしいも用のサツマイモ苗も、
育苗ハウス内で育てているキャベツも、
畑の雑草も、えん麦同様に急に伸びてきています。

伸びる時季が来ました。

【芋日記】

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黄金の馬車 1953仏/伊 ジャン・ルノワール

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この映画は、映画の中で語りたい現実への導入で、
観客を映画の中のセットに誘います。
幕開きその中に現実があるといいます。

主人公のカミーラは、イタリアから南米の植民地に出稼ぎに来た劇団員の一員です。
新大陸で希望を、金を求めてやってきました。
カミーラは、金と自由を得たい私達です。
カミーラは3人の男に求愛されます。
勇敢で優しい騎士フェリペ、彼女は最初は彼と相思相愛だと勘違いしています。
闘牛士ラモンはこの地の英雄です。ストレートに彼女を愛します。純粋な男です。
総督フェルディナンは、富も権力も名声も持っている貴族です。富・権力・名声の象徴の『黄金の馬車』をカミーラに与えます。

映画は、男3人とカミーラとのドタバタで進みます。
時折挟む劇中劇では風刺の演目が上演されますが、
それはドタバタを含めた映画内の現実を観客に客観視させます。

貴族の日和見的な嫌らしさ、彼らは何も決められません。
何も行いません。今が続くという幻想を追うだけです。

無いものねだりのカミーラも愚かです。
フェリペには、ラモンの純粋さと総督の力を求めます。
ラモンには、フェリペの愛と総督の力を、
総督にはラモンの純粋さとフェリペの愛を。

3人の男はカミーラを女神とします。これも愚かです。
女神ではないカミーラを、女神に愛されたいから彼女を無理やり女神とします。その上で欲します。
彼女にとっては迷惑な話ですが、言い寄られると彼女はそれぞれの男が持つ違う魅力を全て欲しがります。

だいたい冒頭の、この一座を呼んだ奴らからして強欲です。
それは植民地支配は続かないという予測を、
造り手が織り込んでいるのかもしれません。
それはさておき、貴族達も含めた己しか見ないことへの破綻を、
ドタバタを通して描きます。

ラスト、映画の現実が終わると、
舞台の中で演じられていたごとく幕が降ります。
幕の前、舞台の外にカミーラが登場します。
カミーラに残った現実は舞台だけでした。
あれだけ欲した金も、貴族の称号も、熱い恋も、強い男も、
得られそうになりますが、全てを望むことで全てを得ることができない。
それは観客もわかっている道理です。

そして、カミーラが一回りして残ったものは、“舞台”でした。
これさえあれば生きていける。最高のものだけは残りました。
もっと突っ込めばカミーラが仕方なしではあったが、
行った善行に神は応えて、カミーラに舞台だけを残したのです。

どこまでが舞台でどこからが現実かをカミーラは悩みますが、
彼女は舞台に立つことにより、舞台ではない時の生があることを悟ります。
それが彼女の人生だということも。

人は何が望みかを自分に問うことがあります
それは迷った時です。迷う時というのは邪な欲が湧いた時です。
私にとっては仕事という舞台があります。
同様に、誰しも生きてきた舞台があるはずです。
それに熱意を傾けるのが、真の望みなのに、その価値を見失うのはカミーラと同じです。
人のことならわかります。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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